東京東海商業学校
東京東海商業学校 | |
---|---|
国公私立の別 | 私立学校 |
学校種別 | 実業学校(甲種商業学校) |
設置者 | 財団法人東京東海商業学校[1] |
設立年月日 | 1929年(昭和4年)3月9日[1] |
閉校年月日 | 1936年(昭和11年)3月31日[2] |
共学・別学 | 男女別学(男子校)[3] |
所在地 | 〒 |
東京東海商業学校(とうきょうとうかいしょうぎょうがっこう)は、かつて東京府東京市麻布区新堀町(現・東京都港区南麻布)にあった私立の男子実業学校。学校経営において数々の不祥事を行っていたことが発覚したため、最後は文部省により閉鎖・解散させられた。
歴史
[編集]東京東海商業学校は、高等小学校卒業程度を入学資格とする4年制の夜間甲種商業学校として1929年(昭和4年)3月9日に文部省より設置が認可され、同年4月に開校した[1][3]。
しかし、1936年(昭和11年)1月8日に、同校庶務係主任が卒業証書を不正に売り、私立大学の専門部に在籍する学生3人がこれを買ったとして[4][5][6][注釈 1]、警視庁本郷本富士警察署が彼らを取調べ、同月15日には学校設立者で財団理事長を兼任していた校長もこの不正売買を共謀した疑いで同署に召喚され、事情聴取された[4][5][6]。その結果、東京東海商業学校が中等学校卒業資格を欲する苦学生を対象に、100円から150円(200円とも)で卒業証書を販売し[4][5][6]、学校の帳簿には購入者が卒業したかのように記載していたことが発覚した[6][注釈 2]。また併せて、設立以来同校が金稼ぎのために定員を超過するほどに不正入学を許可し[7][8][注釈 3]、月謝さえ納めれば卒業証書を授与することも行っており、授業もまともに実施されていなかったということも判明した[7]。さらに、同月27日には校長が、1932年(昭和7年)から1934年(昭和9年)9月にかけて、合計約2千円の校友会費を自身の株売買のために費消したとして[9]、東京区検事局より業務上横領罪で起訴され[9]、市ヶ谷刑務所に収容されるに至った[10]。
以上の諸問題を受けて、東京府学務部は東京東海商業学校に閉鎖命令を下すよう文部省へ具申し[8]、同年3月28日には同部署を通じて、文部省より私立学校令第10条に基づく同月31日付での閉鎖命令が発せられ、同校は解散した[2][7][8][11][注釈 4]。
学校解散後の同年5月29日、東京刑事地方裁判所は、「被告は横領費消した金を全部返済したので其の点は諒とするも教育者として純真なる学生を欺き世を害した罪は大きい」として、控訴審を争っていた元校長に対して懲役6月の判決を下した[12][13][14]。元校長は不服として上告したが、11月6日に大審院はこれを棄却し、刑が確定した[15]。
校歌
[編集]東京東海商業学校の校歌は、本居長世が作曲を担当した(作詞者と制作年月日については未詳)[16]。
その他
[編集]1935年(昭和10年)6月中旬に生徒2人が富士登山へ出かけたまま行方不明となり[17]、同年10月9日に青木ヶ原付近の山より白骨遺体となって発見される事件が発生した[18][注釈 5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ この学生3人は卒業証書売買のブローカーとしても活動していた[5]。
- ^ この事件は、前年11月に本郷本富士署特高係が朝鮮独立運動に加わった疑いで前述の学生3人のうち2人(兄弟)を検挙し、取調べていた中で発覚した[6]。
- ^ 在籍生徒数が1・2年生60名程度なのに対して3・4年生が約200名に増加していた[5]。
- ^ 学校閉鎖の時点で実際に通学していた生徒約290名については、東京府学務局が他校への転入を斡旋する措置をとったが[7][8][11]、これとは別に学籍のみを置いていた「幽霊生徒」が600名ほどいたという[8]。
- ^ 2人の遺体の傍らに睡眠薬の瓶があったことから、同性心中したものかと報じられた[18]。
出典
[編集]- ^ a b c d 『官報 1929年3月9日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、文部省告示第90号。2018年10月8日閲覧。
- ^ a b 『官報 1936年3月31日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、文部省告示第134号。2018年10月8日閲覧。
- ^ a b 『夜間実業教育 第三節 昭和時代に設置された夜間商業学校 一 男子商業学校』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2018年10月8日閲覧。
- ^ a b c 國民新聞 1936a, p. 2.
- ^ a b c d e 東京朝日新聞 1936a, p. 2.
- ^ a b c d e 読売新聞 1936a, p. 2.
- ^ a b c d 東京朝日新聞 1936b, p. 2.
- ^ a b c d e 読売新聞 1936c, p. 3.
- ^ a b 読売新聞 1936b, p. 2.
- ^ 國民新聞 1936b, p. 2.
- ^ a b 國民新聞 1936c, p. 2.
- ^ 國民新聞 1936d, p. 2.
- ^ 東京朝日新聞 1936c, p. 2.
- ^ 読売新聞 1936d, p. 2.
- ^ 読売新聞 1936e, p. 2.
- ^ 金田一 1983, p. 397.
- ^ 東京朝日新聞 1935, p. 11.
- ^ a b 読売新聞 1935, p. 7.
参考文献
[編集]- 書籍
- 新聞記事
- 國民新聞 (1936年1月16日). “東海商業校長を召喚 免状売買がバレて(夕刊)”. 國民新聞 (國民新聞社): p. 2
- 國民新聞 (1936年1月28日). “東海商業校長収容(夕刊)”. 國民新聞 (國民新聞社): p. 2
- 國民新聞 (1936年3月29日). “東海商業校長遂に閉鎖を命ぜらる 在校生徒は斡旋転校(夕刊)”. 國民新聞 (國民新聞社): p. 2
- 國民新聞「東海商業校長に六月(夕刊)」『國民新聞』1936年5月30日。神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫。
- 東京朝日新聞 (1935年6月23日). “東海商業生消息不明 (朝刊)”. 東京朝日新聞 (東京朝日新聞社): p. 11
- 東京朝日新聞 (1936年1月16日). “卒業証書売出し インチキ東海商業暴かる(夕刊)”. 東京朝日新聞 (東京朝日新聞社): p. 2
- 東京朝日新聞 (1936年3月29日). “東海商業に対しついに閉鎖の運命 生徒五百名は転校 (夕刊)”. 東京朝日新聞 (東京朝日新聞社): p. 2
- 東京朝日新聞 (1936年5月30日). “元東海商業校長に懲役六月(夕刊)”. 東京朝日新聞 (東京朝日新聞社): p. 2
- 読売新聞 (1935年10月10日). “東海商業の2人? 秋の精進湖畔に眠る白骨 今夏家出・同性心中(朝刊)”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 7
- 読売新聞 (1936年1月16日). “東海商業の校長召喚 卒業証売買(夕刊)”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 2
- 読売新聞 (1936年1月28日). “東海商業校長起訴(夕刊)”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 2
- 読売新聞 (1936年3月29日). “断乎!学校屋弾圧 東海商業を閉校 醜状続出に最後の宣告(夕刊)”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 3
- 読売新聞 (1936年5月30日). “元東海商業校長に懲役六月(朝刊)”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 7
- 読売新聞 (1936年11月7日). “授業料先取りの校長懲役(夕刊)”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 2