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村山又芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村山 又芳(むらやま またよし、1912年11月13日 - 1945年5月)は、日本競泳ボート競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピックにボート競技の代表選手として出場した。

来歴

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埼玉県秩父郡野上村(現・長瀞町)に生まれる。旧制野上小学、旧制熊谷中学を経て、慶應義塾大学に進学した。1929年、第5回明治神宮競技大会の水泳大会に出場した。慶應義塾大学ではボート部に所属し[1]、数多の大会で優勝する。また、1932年ロサンゼルスオリンピックでは、ボートかじ付きフォアの日本代表に選ばれる。かじ付きフォア日本代表は、敗者復活戦で敗退する[2][注釈 1]

1936年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業した[4]

1945年5月に死去した。それに関しては「戦没オリンピアン」として扱われるケースが複数あるが[5][6]広島市立大学名誉教授の曾根幹子の調査によれば、1982年に当時日本オリンピック委員会委員だった大島鎌吉が作成した戦没オリンピアン名簿では「20.5(昭和20年5月)日本で病死」と記載されており、慶應義塾大学の作成した戦没者名簿にも名前が掲載されていない[7]

1984年当時は、姉(当時77歳)が埼玉県に在住していた[7]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「かじ付きフォア」には5人が乗れるが、代表は7人である。JOCウェブサイトには誰が乗ったかについての明記がないが、『歴史が眠る多磨霊園』の著者である小村大樹は、代表の一人で霊園に墓所のある南波正吉の説明で、村山はレースには出場しなかったと記している[3]

出典

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  1. ^ 朝日年鑑』昭和8年版朝日新聞社、1932年、p.538
  2. ^ 第10回オリンピック競技大会(1932/ロサンゼルス)ボート”. TEAM JAPAN オリンピック記録検索. 日本オリンピック委員会. 2024年10月13日閲覧。
  3. ^ 南波正吉 - 歴史が眠る多磨霊園(小村大樹ウェブサイト)2024年11月2日閲覧。
  4. ^ 慶應義塾総覧 昭和15年版』慶應義塾、1940年、p.267
  5. ^ “戦没オリンピアン、全国に38人平和の祭典から戦場へ 兵庫関係は3人確認”. 神戸新聞. (2021年8月13日). https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202108/sp/p1_0014587689.shtml 2024年10月13日閲覧。 
  6. ^ 【その他】第4回 慶應義塾体育会の軌跡/戦火に散った義塾アスリート - 三田評論ONLINE(2020年8月14日)2024年10月14日閲覧。
  7. ^ a b 曾根幹子「戦没オリンピアン」をめぐる調査と課題 -広島県出身選手を事例に-」(PDF)『広島市公文書館紀要』第32号、広島市公文書館、2020年3月、1-13頁。