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村上亘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村上 亘(むらかみ わたり、文化3年(1806年) - 明治13年(1880年7月31日)は、幕末武士笠間藩士)、剣術家(示現流)、砲術家(神発流)。義知、後に義衛幼名宗之助

経歴

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  • 文化3年(1806年)、笠間藩の示現流剣術指南番・村上善左衛門(120)の子として常陸国笠間(現 茨城県笠間市)で生まれる。
村上家は代々、藩の示現流剣術指南番で、父より剣術を学んだ。
  • 天保8年(1821年)、父・善左衛門の師範代となる。
この時期、村上亘と山本鉄之丞唯心一刀流)は笠間の剣術の双璧として並び称されており、水戸藩から剣術家が何度も訪れ、亘や鉄之丞に試合を挑んだが勝てなかったという。
  • 安政2年(1855年)、家督を継ぎ、藩の示現流剣術指南番となる。翌安政3年(1856年)には、講武館懸に就任し藩校・講武館の運営に携わる。
  • 安政4年(1857年)には、隣の水戸藩の砲術師範に登用される。(後に笠間藩でも砲術師範になる)
  • 安政6年(1859年)、時習館(文館)・講武館(武館)・博菜館(医学館)に分かれていた笠間藩の藩校を統合した、新たな藩校・時習館の初代学頭に就任する。
  • 明治初期の笠間藩の軍制改革で、砲頭・大砲隊司令に就任する。
  • 明治13年(1880年)7月31日、死去。

参考文献

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  • 間島勲 『全国諸藩剣豪人名事典』 新人物往来社 1996年
  • 家臣人名事典編纂委員会編 『三百藩家臣人名事典』第2巻 新人物往来社 1988年