李登欽
岩里 武則 李 登欽 | |
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1943年 | |
生誕 |
1921年2月19日 日本統治下台湾 台北州淡水郡三芝庄大字新小基隆埔頭坑 (現:新北市三芝区埔坪里) |
死没 |
1945年2月25日(24歳没) フィリピン マニラ |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1944年 - 1945年 |
兵科 | 機関科 |
最終階級 | 上等兵 |
戦闘 | |
親族 |
李金竜(父) 李登輝(弟) |
李 登欽(り とうきん、1921年〈大正10年〉2月19日 - 1945年〈昭和20年〉2月25日)は、台北州淡水郡三芝庄(現:新北市三芝区)出身の台湾人日本兵。中華民国第4代総統の李登輝の兄である。日本名は岩里 武則(いわさと たけのり)。太平洋戦争中に海軍へ入隊し、フィリピンのマニラで戦死した。
生涯
[編集]1921年(大正10年)2月19日、李金竜・江錦夫妻の長男として台北州淡水郡三芝庄大字新小基隆埔頭坑(現:新北市三芝区埔坪里)で生まれる。淡水尋常高等小学校を卒業したのち、1938年(昭和13年)に台湾総督府警察に就職した。同年、李洪謹と結婚した。1942年(昭和17年)8月、台北州巡査に任命された。
1940年(昭和15年)、皇民化運動に触発された李家は日本姓として「岩里」を用いるようになり、李登欽は「岩里武則」、弟の李登輝は「岩里政男」と改名した。この改名について、李登輝は後年「『里』の字に『李(り)』の音が残るため、多くの李姓の人々が『岩里』『伯里』などのような姓に改めていた。『岩』の字は、我が家の先祖が福建省竜岩出身であることに由来するのかもしれない」と説明している[1]。
太平洋戦争中の1943年(昭和18年)、武則は海軍特別志願兵制度(朝鮮・台湾で実施された制度)の第1期生に志願し、身体検査・筆記試験・口頭試験を経て合格した。合格後、武則は台湾日日新報からの取材を受け、9月22日号に掲載された。取材の中で武則は「私が海軍特別志願兵を受験した時から必ず合格すると信じておりました。しかしそれが本当に実現してこんなに嬉しいことはありません。勿論銃後にあって治安保護の戦士としてお国に尽くすこともご奉公ですが、出来る事なら第一線でお国のために華々しく活躍したいと思っておりましたがそれが本当になりました。しかも無敵帝国海軍の一員として名誉ある軍艦旗の下で米英撃滅に働くことが出来るのです。自分としてこんな感激に浸った日は今日までありません。これからは立派な帝国海兵としてお役に立つ日の一日も早く来ることを願うばかりです」と語っている[2]。10月1日から半年間、海軍志願兵訓練所での基礎教育を受け、1944年(昭和19年)4月1日からは高雄海兵団で3か月間の特殊訓練を受けたのち、機関科の一等兵として海軍に入隊した。李登輝の回想によると、武則・政男兄弟が最後に会ったのは1944年、左営でのことであった[3]。
1944年7月、武則はフィリピンへ出征し、海軍第31特別根拠地隊に配属された。1945年(昭和20年)、マニラの戦いの最中の2月15日、武則は軍艦上でアメリカ空軍の機銃掃射を受け死亡し、軍艦と共に海へ沈んだ。死後、上等兵へ昇進した[4][5]。
死後
[編集]2007年(平成19年)6月7日、訪日中の李登輝が兄の慰霊のため靖国神社を訪問した[6]。これに対し中華人民共和国外交部は「李登輝の訪日は『台独』の機運を高め、日中関係を損ねる」として李登輝の来日を許可した日本政府への不満を示した[7][8][9]。しかし、日本の内閣官房長官である塩崎恭久は李登輝の訪日を「私的な旅行」と位置づけ、コメントを控えた[10]。6月9日、李登輝は演説で「台湾は1つの独立国家であり、靖国神社問題は中国や韓国が国内の失政から国民の目を逸らすためにでっち上げたものである。この問題によって日本政府が外国から批判される筋合いは無く、国のために命を捧げた人々に敬意を払うのは当然のことである」と述べた[11]。
家庭
[編集]李登欽は1939年に李洪謹と結婚し、李憲昌と李憲明の2子を儲けた。李登欽の死後、2人の子供は李金竜によって育てられた[12]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “李登輝1923-2020》警察之子,曾以日本兵身分參與二戰” (中国語). 2020年8月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月2日閲覧。
- ^ 日本李登輝友の会 台北事務所(早川友久) (2012年8月14日). “岩里武則君(李登輝元総統の御兄上)、海軍志願兵合格”. 2024年10月30日閲覧。
- ^ 李登輝『新・台湾の主張』2015年。
- ^ “前哨, Issues 72-83” (中国語). 子博有限公司 (1997年). 2019年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月5日閲覧。
- ^ 陳柏棕 (2011年). “血旗揚帆——臺灣海軍特別志願兵的從軍始末(1943-1945)” (中国語). p. 41. 2020年10月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月5日閲覧。 “而報導案例中的岩里武則(李登欽)與林聰明在海兵團受訓完畢隨後被派往菲律賓,兩人分別在1945年2月15日、5月26日戰死,奉獻了他們年輕的生命。參見盧金水提供,《海軍特志戰歿者名簿》,手抄本。”
- ^ “李登輝前台湾総統、靖国を訪問”. フランス通信社. (2007年6月7日) 2024年10月30日閲覧。
- ^ “2007年5月31日外交部发言人姜瑜举行例行记者会” (中国語). 中华人民共和国外交部网站. (2007年5月31日). オリジナルの2020年10月25日時点におけるアーカイブ。 2017年2月6日閲覧。
- ^ “2007年6月7日外交部发言人姜瑜举行例行记者会” (中国語). 中华人民共和国外交部网站. (2007年6月7日). オリジナルの2020年10月25日時点におけるアーカイブ。 2017年2月6日閲覧。
- ^ “中国不满李登辉参拜靖国神社” (中国語). BBC中文网 (2007年6月7日). 2020年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月5日閲覧。
- ^ “李參拜靖國神社「哥可享冥福了」”. 自由時報. (2007年6月8日). オリジナルの2017年2月5日時点におけるアーカイブ。 2017年2月5日閲覧。
- ^ “李登辉:中韩编造靖国神社问题” (中国語). BBC中文网 (2007年6月9日). 2021年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月5日閲覧。
- ^ 陳銘城 (1997). 台灣兵影像故事. 前衛出版社