杉興運
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 天文20年(1551年) |
別名 | 通称:弾正忠、豊後守 |
官位 | 従五位下太宰少弐 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 大内義隆 |
氏族 | 杉氏 |
父母 | 父:杉興長 |
子 | 隆景 |
杉 興運(すぎ おきかず/おきゆき)は、戦国時代の武将。周防国・長門国を本拠とする大内氏の家臣。杉興長(おきなが)の子、応永の乱で活躍した杉豊後入道重運の子孫[1]。「興」の字は父同様、大内義興から偏諱を賜ったものである。
生涯
[編集]周防国の大名・大内義隆(義興の子)に仕えて、筑前の守護代を務めた[2]。居城は若杉山城主[3][1]。 1513年時点では興長が挙状を発給している[4]。
享禄3年(1530年)には義隆の命を受けて大内軍を率いて少弐資元を攻めるが(田手畷の戦い)、資元の家臣であった龍造寺家兼の機略の前に一敗地にまみれた。その後も大友氏などと交戦し、北九州の大内軍を任されていたと言う。
天文19年(1550年)7月17日、従五位下に叙位(この時点で豊後守)[5]、22日に太宰権少弐となる[5](『大内義隆記』『大内義隆記』の異本では「太宰少弐」)。
天文20年(1551年)、陶隆房(のちの晴賢)が謀反を起こした際には大内義隆に従ったが、義隆が大寧寺で自害した後、自身も九州糟屋浜において義隆に殉じて自害したという記録[8]と、陶軍と戦い討ち死にした記録[9]と、義隆と同行し共に切腹した記録[10]があり、定かではない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345。NDLJP:780384