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杉興運

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
杉 興運
時代 戦国時代
生誕 生年不詳
死没 天文20年(1551年
別名 通称:弾正忠、豊後守
官位 従五位下太宰少弐
幕府 室町幕府
主君 大内義隆
氏族 杉氏
父母 父:杉興長
隆景
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杉 興運(すぎ おきかず/おきゆき)は、戦国時代武将周防国長門国を本拠とする大内氏の家臣。杉興長(おきなが)の子、応永の乱で活躍した杉豊後入道重運の子孫[1]。「興」の字は父同様、大内義興から偏諱を賜ったものである。

生涯

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周防国の大名・大内義隆(義興の子)に仕えて、筑前守護代を務めた[2]。居城は若杉山城主[3][1]。 1513年時点では興長が挙状を発給している[4]

享禄3年(1530年)には義隆の命を受けて大内軍を率いて少弐資元を攻めるが(田手畷の戦い)、資元の家臣であった龍造寺家兼の機略の前に一敗地にまみれた。その後も大友氏などと交戦し、北九州の大内軍を任されていたと言う。

天文19年(1550年7月17日、従五位下に叙位(この時点で豊後守)[5]22日に太宰権少弐となる[5](『大内義隆記』『大内義隆記』の異本では「太宰少弐」)。

天文20年(1551年)、陶隆房(のちの晴賢)が謀反を起こした際には大内義隆に従ったが、義隆が大寧寺で自害した後、自身も九州糟屋浜において義隆に殉じて自害したという記録[8]と、陶軍と戦い討ち死にした記録[9]と、義隆と同行し共に切腹した記録[10]があり、定かではない。

脚注

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  1. ^ a b c 『大内義隆記』異本
  2. ^ 『肥陽軍記』
  3. ^ 『大内義隆記』
  4. ^ 『福岡市史資料編中世1市内所在文書』西区青木文書4
  5. ^ a b 歴名土代群書類従22巻419頁収録、内外書籍
  6. ^ 『続本朝通鑑参取』
  7. ^ 歴名土代』では9月死去とする。『続本朝通鑑参取』は津屋邑で死去とする。
  8. ^ 『大内義隆記』[1][6][7]
  9. ^ 陰徳太平記
  10. ^ 『中国治乱記』

参考文献

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  • 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345 オープンアクセスNDLJP:780384