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泰昌帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朱常洛から転送)
泰昌帝 朱常洛
第15代皇帝
明光宗著袞龍袍半身像
王朝
在位期間 泰昌元年8月1日 - 9月1日
1620年8月28日 - 9月26日
都城 北京
姓・諱 朱常洛
諡号 崇天契道英睿恭純憲文景武淵仁懿孝貞皇帝
廟号 光宗
生年 万暦10年8月11日
1582年8月28日
没年 泰昌元年9月1日
1620年9月26日
万暦帝
恭妃王氏
后妃 孝元貞皇后郭氏(追号)
陵墓 慶陵
年号 泰昌:1620年

天啓帝(16代皇帝)

崇禎帝(17代、最後の皇帝)
明光宗常服像

泰昌帝(たいしょうてい)は、の第15代皇帝常洛(じょうらく)。廟号光宗(こうそう)。日本では在位中の元号を取って一般的に泰昌帝と呼ばれる。

生涯

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万暦帝の長男として生まれる。万暦帝は常洛を愛さず、寵妃鄭貴妃との間に出来た三男の常洵皇太子に立てたがっていたが、孝定太后の命により常洛を皇太子に立てた。しかしその後も鄭貴妃の手の者に命を狙われる事件(梃撃の案)が発生したが、万暦帝はこれを黙過し、臣下から鄭貴妃が事件の黒幕であると上訴されても鄭貴妃を庇っていた。

そのようなことがありながらも、万暦48年(1620年7月、父帝の崩御により何とか常洛が即位することができた。泰昌帝は幼い頃から英邁だったので臣下たちの期待は高かったが、即位して1か月で崩御した。この泰昌帝の死に関わる事件が「紅丸の案」である。即位してほどなく下痢を催した泰昌帝に、鴻臚寺丞を務めていた李可灼が紅丸(丸薬)を勧め、泰昌帝が一つ服用したところ気分がよくなった。ところが、もう一丸飲んだところ、翌日にわかに崩御したという事件である。これを陰謀と見なして、背後関係を追及するべきだと言い出す者が現れ、まず丸薬を勧めた李可灼が弾劾され、次いで紅丸を勧めるのを止めなかったという理由で大学士方従哲も弾劾された。

改元は前皇帝が崩御した翌年の元日と決まっており、泰昌の元号が用意されていたが、その暇もなく泰昌帝は崩御してしまった。このまま新しい皇帝が即位し、次の元日からその皇帝のための新しい元号を使うとすると泰昌という元号は存在しなくなり、ひいては泰昌帝の存在が消滅することになる。臣下たちは話し合い、この年の7月以前を万暦、8月以降を泰昌とすることにした。

宗室

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后妃

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男子

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女子

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  • 懐淑公主 朱徽娟 - 母は孝元皇后郭氏。早世。
  • 悼淑公主[1][2] - 夭折。
  • 悼寧公主[2] - 夭折。
  • 悼康公主[2] - 夭折。
  • 悼順公主[2] - 夭折。
  • 悼恭公主[2] - 夭折。
  • 寧徳公主 朱徽妍 - 母は懿妃傅氏。劉有福に降嫁した。
  • 遂平公主 朱徽婧 - 母は懿妃傅氏。斉賛元に降嫁した。
  • 楽安公主 朱徽媞 - 母は康妃李氏。鞏永固に降嫁した。
  • 悼温公主 朱徽姃[1] - 母は慎嬪邵氏。夭折。

登場作品

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テレビドラマ

脚注

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  1. ^ a b 『春明夢餘録』
  2. ^ a b c d e 『太常続考』
先代
万暦帝
明の皇帝
1620年
次代
天啓帝