朱守仁
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朱 守仁(しゅ しゅじん、生没年不詳)は、元末明初の官僚。字は元夫。本貫は徐州。
生涯
[編集]元末に障を保った功により、官は枢密同知となり、舒城を守った。至正24年(1364年)、徐達が廬州を占領すると、守仁は舒城ごと朱元璋に帰順した。洪武3年(1370年)[1]、工部侍郎となった。洪武4年(1371年)、工部尚書に進み、洪武帝(朱元璋)の命を受けて山東諸州の官吏を監察した。ほどなく北平行省参政に転じたが、糧食輸送を滞らせて、蒼梧知県に左遷された。容州知州や高唐州知州を歴任し、いずれも善政で知られた。洪武10年(1377年)、四川布政使に進んだ。事件に連座して労役の罰に相当するところ、特別に許された。洪武15年(1382年)、雲南が平定されると、威楚開南路宣撫司が楚雄府に改められ、守仁は楚雄府知府に任じられた。流民を呼び集め、徭役を均等化し、学校を建てて、領内を安定させた。洪武28年(1395年)[2]、入朝して太僕卿となった。牧馬草場を江北の滁州各所に設置し、14監98群を管轄して、馬政を整備した。長らくを経て、致仕した。永楽初年に入朝し、病のため死去した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻138 列伝第26