本間高茂
表示
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2024年10月) |
本間高茂(ほんま たかもち ? - (天正17年)1589年)は佐渡国の武将である。高貞とも。
(天正17年)1589年5月28日、上杉景勝は出雲崎港から300艘以上の船団を率いて、佐渡平定の先発隊を派遣した。この戦いにおいて、軍奉行の直江兼続は、戦闘を避けて降伏するよう各地の本間氏一族に通達を出した。その結果、沢根城主の本間左馬助の協力を得ることができた。
6月12日、景勝自ら1000艘以上の船団を率いて佐渡へ向かい、島の中央西部にある沢根に上陸した。そして、程近い河原田城の本間高統を攻撃した。激しい戦いが繰り広げられたが、最終的に城に火を放って自害したと伝えられている。
次に、景勝は6月16日に、最も頑強に抵抗していた羽茂城主の本間高茂を攻めた。高茂は弟の赤泊城主・高頼や側近たちとともに城を脱出し、船で逃亡を図ったが、越後で捕らえられ、佐渡へ送還された。そして、国府川原で処刑されたのである。
こうして、400年もの間、佐渡に栄えていた羽茂本間氏は滅亡することとなった。[1]
脚注
[編集]- ^ “Vol 7. 佐渡平定 (直江風雲録)|戦国魂プロジェクト 公式サイト”. sengokudama.com. 2024年10月16日閲覧。