本野精吾
表示
本野精吾 | |
---|---|
生誕 |
1882年(明治15年)9月30日 日本 東京府 |
死没 |
1944年8月26日(61歳没) 日本 京都府 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学工科大学 |
職業 | 建築家 |
親 | 本野盛亨 |
受賞 | 従三位勲二等(1944年) |
所属 | 京都高等工芸学校 |
建築物 |
西陣織物館 本野精吾自邸 |
本野 精吾(もとの せいご、1882年(明治15年)9月30日 - 1944年(昭和19年)8月26日)は、大正期から昭和初期にかけて京都を中心に活躍した建築家[1]。日本におけるモダニズム建築の先駆者のひとり。
主な経歴
[編集]- 1882年、読売新聞社創業者・2代目社長の本野盛亨の5男として東京に生まれる。兄に、寺内内閣で外務大臣を務めた本野一郎、早稲田大学教授・4代目読売新聞社社長を務めた本野英吉郎、電気工学者で京都帝国大学教授を務めた本野亨がいる。
- 暁星中学校、第一高等学校を経て、1906年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(同期に岡田信一郎、松井貴太郎、横濱勉などがいる)、三菱合資会社(三菱地所)技師となる。1908年に武田五一の招きにより京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学の前身)教授となる[2]。
- ドイツ留学でモダニズムの洗礼を受け、1927年に京都で結成された日本インターナショナル建築会(当初の同人は、本野精吾、上野伊三郎、石本喜久治、中尾保、伊藤正文、新名種夫の6名)に参加し、関西のインターナショナル・スタイル(国際様式)の中心的人物として活躍した。建築のみならず家具や舞台・船室の設計など幅広い仕事を手がける。川崎造船デザイン顧問などを務めた[3] 。エスペランティストとしても知られている[1]。
- 中村鎮式コンクリートブロック造で有名な「本野精吾自邸」は、三男・本野東一(京都高等工芸学校図案科卒、大阪芸大教授)一家が同居して、維持管理を続けている。東一の歿後は長男・本野陽(本野精吾の孫)が引き継いでいる。
主な作品
[編集]建造物名 | 現況 | 年 | 所在地 | 指定 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
旧西陣織物館 | 京都市考古資料館[4] | 1914年(大正3年) | 京都市上京区 | 京都市有形文化財[4] | 日本におけるモダニズム建築の先駆として知られる。 |
本野精吾自邸 | 木村松本建築設計事務所[5] | 1924年(大正13年) | 京都市北区 | 中村鎮式コンクリートブロック造 | |
旧鶴巻邸 | 栗原眞純邸 | 1929年(昭和4年) | 京都市山科区 | 登録有形文化財 | 京都高等工芸学校校長・鶴巻鶴一邸として建てられた。 中村鎮式コンクリートブロック造 |
京都高等工芸学校本館 | 旧京都工芸繊維大学3号館 | 1930年(昭和5年) | 京都市左京区 | 登録有形文化財 | |
橘丸」などの客船の船内装飾 | 「
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 「関西の近代建築」 石田潤一郎著、1996年、中央公論美術出版発行
- 樋口治「日本の豪華客船のデザインに対する私の体験と提唱 (<特集>客船とインテリア) 『らん:纜』 1988年 1巻 p.23-27, doi:10.14856/ran.1.0_23
- 堀勇良『日本近代建築人名総覧』中央公論新社、2021年。
脚注
[編集]- ^ a b 日本近代建築人名総覧 2021.
- ^ 「日本の建築家解剖図鑑」仁村悟 2020
- ^ 樋口(1988)
- ^ a b “愛宕道”. 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所. 2022年8月8日閲覧。
- ^ “木村松本が、1924年竣工の京都の「本野精吾邸」を新事務所にすることを公表”. アーキテクチャーフォト (2019年5月6日). 2020年6月26日閲覧。
外部リンク
[編集]- INAX REPORT 本野精吾
- [人間 本野精吾教授ーそのデザイン力とヒューマニズム(石沢加津子,KIT同窓会誌2011. No.5_p18~19)https://www.kit-obog.com/会誌]
- 人間 本野精吾教授Ⅱー真美会でもデザイン力を発揮 (石沢加津子,工繊 No.7.p24~25)
- [人間 本野精吾教授Ⅲー本野邸に溢れるデザインの魅力(石沢加津子、KIT同窓会誌「工繊」2014 No.8.p27)https://www.kit-obog.com/会誌]
- 『恩師 本野精吾教授』ー「白井晟一研究会」HPより