本田親徳
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本田 親徳(ほんだ ちかあつ、文政5年1月13日(1822年2月4日) - 明治22年(1889年)4月9日)は明治時代の神道家。
神道霊学中興の祖と言われ、古代に存在したとされる帰神(人に神を降ろす法)の復元を図り、鎮魂帰神を中核とする本田霊学を日本に確立した。その霊学理論は長沢雄楯、副島種臣らに継承されたほか、本田神霊学は出口王仁三郎が開いた大本、友清歓真や荒深道斉などの著名な神道系新宗教家に多大な影響を与えた。
経歴
[編集]1822年1月13日、薩摩国加世田(現鹿児島県加世田市)の薩摩藩士・本田主蔵の長男として生まれる。 幼い頃から漢学を修める日々を送り、天保10年(1839年)、17歳の時に京都に遊学。その後江戸に移り縁あって会沢正志斎に入門、平田篤胤などの影響を受けながら国学や和漢を修める。天保14年(1843年)、京都に滞在中「狐憑き」の少女と出合ったことをきっかけとして神霊の研究を本格的に始める。その霊魂教義は30代半ばに体系化されたとされ神道における霊的側面を理論化し明らかにした。
その内容を大別すると、
- 神や霊を人に降ろす方法である「帰神法」。
- 帰神を実現するための精神統一の修行法である「鎮魂法」。
- 鎮魂で得た力の応用としての「禁厭」からなっていた。
- 神懸かりには三十六法があること明らかにしお告げであっても、それを鵜呑みにするのではなく、懸かった神霊の階級や種類やを判別する「審神」(さにわ)を重視した。
また白川伯王家の塾頭で門外不出の伯家神事秘法を体得していた高浜清七郎とも深い交流があった。
1889年4月9日に67歳で没する。