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本多貫一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本多 貫一
ほんだ かんいち
生年月日 1917年10月3日
出生地 愛知県西尾市
没年月日 (2006-05-30) 2006年5月30日(88歳没)
出身校 愛知県立西尾中学校(現・愛知県立西尾高等学校
所属政党 無所属
称号 勲四等旭日小綬章
勲七等瑞宝章
親族 父・本多与三郎(西尾町長)

当選回数 5回
在任期間 1969年9月15日 - 1989年9月14日
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本多 貫一(ほんだ かんいち、1917年大正6年)10月3日[1] - 2006年平成18年)5月30日)は、日本政治家愛知県西尾市長(5期)。

来歴

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愛知県西尾市出身[2]。父親は西尾町長を務めた本多与三郎[3]。1934年(昭和9年)、愛知県立西尾中学校(現・愛知県立西尾高等学校)卒業[4]。1946年(昭和21年)4月30日、軍事功労により勲七等瑞宝章を受章[5]

1952年(昭和27年)、西尾町教育委員会委員に就任[6]。織布業会社社長を務める[7]

1955年(昭和30年)4月、愛知県議会議員選挙・西尾市選挙区(定数1)に無所属で立候補するも、自由党現職の本田明治に敗れる[8]

本多は西尾市長の杉浦喜之助に3選出馬を強くすすめていたが、1969年(昭和44年)8月7日、杉浦は健康上の理由から不出馬を表明[9]。9月7日実施の市長選への立候補を決断し、中野四郎派の元市議、榊原一郎を破り初当選した[7][10][3]。系列としては中垣國男派に属した[11]

1985年(昭和60年)6月6日から1986年(昭和61年)6月4日まで愛知県市長会会長と東海市長会副会長を務めた[12][5]

1985年(昭和60年)9月、前市議の加藤誠一を破り5選 [13][14]

1986年(昭和61年)4月7日、西尾市観光協会が発足。同協会の名誉会長に就任した[15]

市長在職中、善明工業団地の造成と企業誘致に奔走し、市の財政基盤を強固にしたほか、名鉄西尾線の高架事業や愛知県立西尾東高等学校の設立など幅広く手腕を発揮した[16]。また、老人医療無料化をはじめとする医療費の軽減、救急医療情報システムの導入など医療福祉の施策にも重きを置いた[6]

1990年(平成2年)4月、勲四等旭日小綬章を受章[4]。1993年(平成5年)5月1日、西尾市名誉市民に推挙される[17]

2006年(平成18年)5月30日、肺がんのため死去[2]。88歳没。

脚注

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  1. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、251頁。
  2. ^ a b 中日新聞』2006年5月30日付夕刊、15面、「本多貫一氏死去」。
  3. ^ a b 『三河新報』1969年8月15日、「本多氏が立候補を表明 市政記者ク室で」。
  4. ^ a b 『日外アソシエーツ whoplus』 「本多 貫一(ホンダ カンイチ)」の項
  5. ^ a b 『市政に夢を―本多市政二十年の施政方針―』 住みよい西尾市をつくる会、1993年5月15日、278-279頁。
  6. ^ a b 『日本の歴代市長 第二巻』歴代知事編纂会、1984年11月10日、510頁。 
  7. ^ a b 第5回西尾市長選挙結果” (PDF). 西尾市公式ウェブサイト. 2021年12月20日閲覧。
  8. ^ 『愛知県議会史 第十巻』愛知県議会、1983年3月15日、415頁。 
  9. ^ 『三河新報』1969年8月8日、「健康上から出馬辞退 杉浦氏、議場で発言」。
  10. ^ 『三河新報』1969年7月25日、「市長選を考える (6) 西尾市民は眠っていないか 議員の年間活動表」。
  11. ^ 『三河新報』1969年8月17日、「市長選を考える (25) 西尾市民は眠っていないか 本多貫一氏」。
  12. ^ 『中日新聞』1989年6月7日付朝刊、県内版、16面、「悔いなし最多選市長 本多・西尾市長の引退表明 後継候補一本化は微妙」。
  13. ^ 第9回西尾市長選挙結果” (PDF). 西尾市公式ウェブサイト. 2021年12月20日閲覧。
  14. ^ 『愛三時報』1985年9月10日、「市長に本多氏五選」。
  15. ^ 東海愛知新聞』1986年4月8日、1面、「会長に糟谷氏選ぶ 西尾市観光協会が発足」。
  16. ^ 『中日新聞』2006年6月2日付朝刊、西三河版、20面、「本多元市長の功績をしのぶ 西尾で葬儀・告別式」。
  17. ^ 名誉市民”. 西尾市公式ウェブサイト (2021年4月21日). 2021年12月20日閲覧。