本多忠敬 (子爵)
ほんだ ただあつ 本多 忠敬 | |
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生誕 | 文久3年10月14日(1863年11月24日) |
死没 | 1920年6月8日(56歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 貴族院議員、宮内省式部官 |
肩書き | 第17代本多家当主 |
本多 忠敬(ほんだ ただあつ、文久3年10月14日[1](1863年11月24日) - 1920年6月8日)は、日本の子爵、貴族院議員。岡崎藩最後の藩主・本多忠直が没したのち、本多家家督を継いだ(第17代)。
経歴
[編集]文久3年10月14日(1863年11月24日)、本多忠胤の長男として生まれる。弟は第2代岡崎市長の本多敏樹。
1880年(明治13年)4月29日、最後の岡崎藩主本多忠直が35歳で死去した。忠敬は本多家の家督を相続する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を授けられる。宮内省式部官に就任[2]。
1869年(明治2年)9月に設立されたものの、廃藩置県に伴い2年で廃止された岡崎藩の藩校の允文館(いんぶんかん)と允武館(いんぶかん)[3]の遺志を継ぐべく、教育事業に力を注いだ。本多賞を創設し小中学生の勉学を奨励[4]。1901年(明治34年)4月、東京遊学の子弟のために、本郷森川町の旧藩邸に宿舎「龍城館」と三河郷友会の学生寮舎(三河郷友会学生会館)を提供した[5][6]。同郷子弟に対し物心両面から援助の功を尽くした。
1904年(明治37年)7月10日からその死去まで貴族院議員を務めた[7]。
1915年(大正4年)4月16日から「家康忠勝両公三百年祭」が開かれる。忠敬は三百年祭の祭主を務め、祭典後に本多忠勝出生の地とされる岩津村大字西蔵前(現・岡崎市西蔵前町)に碑を建立した[4][8]。
1919年(大正8年)、旧岡崎城跡一円を市民憩いの場として開放するため岡崎市へ寄付[4]。市は11万円余り(県と市で折半)を投じ5か年継続事業により整備につとめ、旧城郭区域を岡崎公園として完成させた[9]。
1920年(大正9年)6月8日、死去。享年56。1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される[10]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 岡崎市/統計ポータルサイト/岡崎市統計書 2014年版 付録
- ^ 宮川倫山編『全岡崎知名人士録』東海新聞社、1962年6月1日、9頁。
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、44頁。
- ^ a b c 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、335頁。
- ^ 沿革│公益財団法人 三河郷友会
- ^ 三河郷友会学生会館 | 岡崎市ホームページ
- ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、54頁。
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、484頁頁。
- ^ 第3回 岡崎公園 | 岡崎市 市制100周年記念サイト
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、615頁。
- ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (岡崎)本多家初代 1884年 - 1920年 |
次代 本多忠昭 |