本多幸七郎
本多 幸七郎(ほんだ こうしちろう、弘化2年(1845年) - 明治38年(1905年)[1][2] )は、幕末の旗本。名は忠直。禄高400石。幕府陸軍の士官として歩兵頭を務める。戊辰戦争では大鳥圭介の腹心として、伝習隊を率いて南関東から箱館まで転戦した。戊辰戦争後は駿府に行き、静岡藩が設立した沼津兵学校の教官を務める。
経歴
[編集]幕臣時代
[編集]旗本・本多八左衛門の孫。父が早世しており、安政6年(1859年)、祖父の家督を継ぎ、将軍の警護等を務める新番に就く[3]。 文久元年(1861年)、東禅寺事件でイギリス公使館を守備し尊王攘夷派浪士と戦い、銀20枚を褒美として受け取る[4]。元治元年(1864年)、慶応2年(1866年)に将軍・徳川家茂を警護し上洛する[3]。慶応2年に歩兵指図役、慶応4年(1868年)に歩兵頭に昇進する[4]。
戊辰戦争
[編集]関東の戦い・会津戦争
[編集]慶応4年4月11日(1868年5月3日)の江戸城引渡しの際、隊長を務めていた伝習隊第二大隊約500名を率いて墨田・報恩寺に脱走[5]。大鳥圭介に従い、旧幕府脱走兵が集結していた国府台へ移動[6]、土方歳三・立見鑑三郎らと合流する。
伝習隊第二大隊は大鳥軍の直率部隊として北上し、小山・宇都宮などで戦闘に参加する。4月22-23日の新政府軍による宇都宮城奪回戦で背中に銃創を負う[7]。宇都宮での敗北後、日光を経て会津へと向かった。会津戦争では母成峠を守備する。8月21日の母成峠の戦いに敗れた後、米沢を目指すが、恭順に転じていた米沢藩内に入れず、仙台で榎本艦隊に合流、蝦夷地に向かう。
箱館戦争
[編集]明治元年10月21日(1868年12月4日)、箱館北方の鷲ノ木(現・森町)に上陸後、遊撃隊長・人見勝太郎とともに箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を届ける使者となる。10月22日、峠下(現・七飯町)で宿営中に新政府軍の夜襲を受けるが、後を追ってきた伝習隊などとともに新政府軍を破る。10月23日、文月村(現・北斗市)の松前藩陣地を攻略する[8]。
旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、第二列士満(れじまん)隊長となる[9]。
明治2年(1869年)4月13-14日、木古内の戦いで伝習歩兵隊を率いて新政府軍を撃退する[10]。その後、矢不来(現・北斗市)の守備に就くが4月29日の戦闘で敗北。
箱館戦争終結後、弘前藩預かりとなり最勝院に収容される[11]。釈放後、駿府に向かう。
明治時代
[編集]静岡藩により設立された沼津兵学校の体育教官となり、明治4年(1871年)には三等教授方となる[1]。沼津兵学校が兵部省に移管されると、陸軍少尉に任官。明治5年(1872年)に沼津出張兵学寮が廃止されると失職するが、明治7年(1874年)、再び陸軍中尉として任官し、外山学校教官、小銃試験委員などを務め、陸軍歩兵大尉に昇進した[12]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『補訂 戊辰役戦史 上巻』時事通信社、1988年。ISBN 4-7887-8840-3。
- 『戊辰戦争全史(上)』新人物往来社、1998年。ISBN 4-404-02572-6。
- 『戊辰戦争全史(下)』新人物往来社、1998年。ISBN 4-404-02573-4。
- 『大鳥圭介 威ありて、猛らず』鹿島出版会、2008年。ISBN 978-4-306-09389-8。
- 『徳川幕臣人名事典』東京堂出版、2010年。
- 歴史群像編集部 編『全国版幕末維新人物事典』学研パブリッシング、2010年。
- 『敗者の日本史17 箱館戦争と榎本武揚』吉川弘文館、2012年。ISBN 978-4-642-06463-7。