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木造俊康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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木造俊康
時代 室町時代前期
生誕 不詳
死没 応永28年4月26日1421年5月27日
改名 俊泰→俊康、宗誓(法名)?
別名 油小路殿
官位 正二位権大納言
主君 後小松天皇称光天皇
氏族 村上源氏中院流北畠庶流、木造家
父母 父:木造顕俊、養父:北畠顕泰
兄弟 俊通俊康坂内雅俊、森本俊氏
持康、康玄、西川房任
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木造 俊康(こづくり としやす)は、室町時代前期の公卿南朝伊勢国司北畠顕能の孫で、木造顕俊の二男。叔父顕泰養子として在京出仕したが、反幕行動をとる満雅とは袂を分ち、帰家して木造家を継いだ。初名は俊泰

経歴

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元中9年/明徳3年(1392年南北朝合一後程なく伊勢国司北畠顕泰養子として在京出仕し、応永2年(1395年叙爵されて侍従に任じられたという。応永10年(1403年参議左近衛中将に叙任されて公卿に列す。その後も、応永12年(1405年従三位権中納言に叙任され、応永14年(1407年正三位、応永18年(1411年従二位と順調に昇進を重ねた。

応永21年(1414年将軍足利義持によって木造庄一円知行が本家の北畠家の本流である久我家に安堵された際、俊康はその権益を放棄する旨の避状を提出していることから[1]、これより前に木造家を相続したとみられる。

応永22年(1415年)春に伊勢国で挙兵した国司・北畠満雅により居城坂内城が攻略されると、俊康は土岐持益仁木満長幕府軍に与して伊勢に進攻し、木造城の坂内雅俊を敗走させた。この際に俊康は木造城に入城し、以後は居城とした[2]

応永23年(1416年権大納言に任じられ、応永24年(1417年正二位に至る。応永27年(1420年)3月26日に辞職して出家法名宗誓と号した。翌応永28年(1421年)春より京都で流行した疫病に罹患し、4月26日に薨去

官歴

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注記のないものは『諸家伝』による。

脚注

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  1. ^ 久我家文書』応永21年10月5日付木造俊泰避状
  2. ^ 桜雲記』『南方紀伝
  3. ^ 『公卿補任』
  4. ^ 『木造家略系図』(木造家蔵)
  5. ^ 看聞日記』同日条
  6. ^ 『木造家略系図』は応永32年1月17日没、享年47とする。

参考文献

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  • 岡田文雄 『久居市史 上巻』 久居市役所総務課、1972年、NCID BN04034746
  • 中野達平 「室町前期における北畠氏の動向」(『国史学』第106号 国史学会、1978年10月、NCID AN00089431
  • 伊藤裕偉 「中世後期木造の動向と構造 ―北畠氏領域における支城形態の一事例―」(『Mie history』Vol.7 三重歴史文化研究会、1994年11月、NCID AN10399333
  • 中野達平 「久我家領伊勢国木造荘と北畠家について」(『國學院雜誌』第97巻第12号 國學院大學出版部、1996年12月、NCID AN00087221
  • 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年

関連項目

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先代
木造顕俊
木造家
第2代
次代
木造持康