木谷要一
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生誕 |
1896年10月18日 日本 福井県敦賀郡 (現:敦賀市) |
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死没 | 1946年12月16日(50歳没)[1] |
研究分野 | 物理学、応用物理学、金属工学 |
研究機関 |
東京帝国大学 旅順工科大学 (旧制) |
出身校 | 旅順工科学堂[2] 東北帝国大学[3] 東京帝国大学[4] |
主な受賞歴 | 正五位(1941年) |
プロジェクト:人物伝 |
木谷 要一(きだに よういち、1896年(明治29年)10月18日 - 1946年(昭和21年)12月16日は、日本の物理学者。
経歴
[編集]福井県敦賀郡(現:敦賀市)出身。旅順工科学堂電気工学科を卒業[2]、東北帝国大学理学部物理学科にて理学士[3]、東京帝国大学にて工学博士となる[4]。東京帝国大学工学部造兵学助教授を務め[5]、1935年より母校の旅順工科大学教授となる。専門は、応用物理学・金属工学。
関東局在外研究員として、1936年2月 - 1937年11月7日[6]まで、欧米の研究所や実験場へ学術研究視察を行なった[7]。ベルリンに約半年、ハレ(ザーレ)に4ヶ月滞在し、ベルリンを拠点に西欧、北欧、米国など各国を視察している。
終戦を旅順で迎え、他の職員とともにソ連兵に大連へ強制退去させられた後、大連第一中学校にて教鞭を取った[8]。
不慮の事故[9]により1946年12月16日に西田病院[1]にて死去。
家族・同僚
[編集]父は大連商業銀行、奉天商工銀行銀行員の木谷甚兵衛[10]。妻・セイは日本明治期の撮影家・成田常吉の長女である。セイは夫の没後、蔵書の処分を夫の同僚で天文学者岡武史の父である岡俊平に依頼している[11]。従姪孫は日本大学教授の古市昌一。
著書
[編集]単著
[編集]共著
[編集]- 『応用物理学実験』(共著 内田老鶴圃 1934年)
注釈・出典
[編集]- ^ a b 『旅順の日 : 旅順工大同窓会六十周年記念誌』、100頁。
- ^ a b 『旅順工科大学一覧 大正15年4月至大正16年3月』、85頁。
- ^ a b 『東北帝国大学一覧 昭和2年4月至3年3月』、449頁。
- ^ a b 『官報 1931年11月14日』、342頁。
- ^ 『東京大学百年史 資料 3』、109頁。
- ^ 『官報 1937年12月22日』、690頁。
- ^ 『欧米における研究所見学談(日本機械学会誌)』、161頁。
- ^ 『柳緑花紅 : 大連一中創立第五十五周年記念誌』、15頁。
- ^ 『真嶋正市先生と応用物理』、51頁。
- ^ 『満洲芸術壇の人々』、366頁。
- ^ 『読売新聞[時代の証言者]』天文と化学を結ぶ 岡武史<9>数学者がアイドル。