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木村経広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村 経広
生誕 1889年2月7日
日本の旗 日本 京都府
死没 (1970-12-09) 1970年12月9日(81歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1911年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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木村 経広(きむら つねひろ、1889年明治22年)2月7日[1] - 1970年昭和45年)12月9日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2]

経歴

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1889年(明治22年)に京都府にで生まれた[1]陸軍士官学校第23期、陸軍大学校第32期卒業[1]1935年(昭和10年)8月1日陸軍工兵大佐進級と同時に陸軍工兵学校教官に着任[2]1936年(昭和11年)3月に鉄道第2連隊長(北支那方面軍)に転じ[2]日中戦争に出動[1]

1938年(昭和13年)7月15日、陸軍少将進級と同時に陸軍工兵学校幹事に着任[1][2]1940年(昭和15年)8月に陸軍工兵学校長に就任し[1]1942年(昭和17年)4月1日に陸軍中将に進級し[2]8月31日関東軍野戦鉄道司令官に就任した[1]1943年(昭和18年)12月に陸軍築城部本部長に転じ[1]、発令日は不明ながら兼大本営陸軍幕僚附となった[3]1944年(昭和19年)7月18日第110師団長(支那派遣軍第12軍)に親補され[1]、中国戦線に出動[1]洛陽を根拠地とし[1]宜陽臨汝の警備に当たった[1]。師団では「焼くな・殺すな・犯すな」を徹底し[1]、鎮村自衛組織を作ることで[1]、同地の治安安定化に貢献した[1]。そのことにより敵将も感服し、復員第1便を割り当てられた[1]

1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 福川 2001, 264頁.
  2. ^ a b c d e 外山 1981, 295頁.
  3. ^ 第138号 昭和19年7月19日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900 
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。

参考文献

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  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026