木村経広
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木村 経広 | |
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生誕 |
1889年2月7日 日本 京都府 |
死没 | 1970年12月9日(81歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1911年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
木村 経広(きむら つねひろ、1889年(明治22年)2月7日[1] - 1970年(昭和45年)12月9日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2]
経歴
[編集]1889年(明治22年)に京都府にで生まれた[1]。陸軍士官学校第23期、陸軍大学校第32期卒業[1]。1935年(昭和10年)8月1日に陸軍工兵大佐進級と同時に陸軍工兵学校教官に着任[2]。1936年(昭和11年)3月に鉄道第2連隊長(北支那方面軍)に転じ[2]、日中戦争に出動[1]。
1938年(昭和13年)7月15日、陸軍少将進級と同時に陸軍工兵学校幹事に着任[1][2]。1940年(昭和15年)8月に陸軍工兵学校長に就任し[1]、1942年(昭和17年)4月1日に陸軍中将に進級し[2]、8月31日に関東軍野戦鉄道司令官に就任した[1]。1943年(昭和18年)12月に陸軍築城部本部長に転じ[1]、発令日は不明ながら兼大本営陸軍幕僚附となった[3]。1944年(昭和19年)7月18日に第110師団長(支那派遣軍・第12軍)に親補され[1]、中国戦線に出動[1]。洛陽を根拠地とし[1]、宜陽、臨汝の警備に当たった[1]。師団では「焼くな・殺すな・犯すな」を徹底し[1]、鎮村自衛組織を作ることで[1]、同地の治安安定化に貢献した[1]。そのことにより敵将も感服し、復員第1便を割り当てられた[1]。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。