木村浅七
2代 木村 浅七(淺七、きむら あさしち、1891年(明治24年)11月10日[1] - 1982年(昭和57年)3月3日[2][3])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県足利市長。幼名・保之助[4]。
経歴
[編集]栃木県足利郡足利町助戸(現足利市助戸)で、木村国三郎、タキ夫妻の二男として生まれる[4][5]。1898年(明治31年)祖父浅七の養子となる[4][5]。1913年(大正2年)東京高等商業学校を卒業した[1][2][4]。
1914年(大正3年)家業の輸出絹織物製造販売業に従事[4]。1915年(大正14年)市場調査のためオーストラリア、インドなどに渡航[4][5]。1916年(大正5年)祖父の死去に伴い2代浅七を襲名した[4][5]。木村工場を引き継いで事業を拡大[4]。明治紡績監査役、野沢屋輸出店監査役、両毛整織監査役、日本輸出人造織物工業組合連合会監事、足利輸出絹組合理事、人絹織物工業組合理事、足利銀行取締役、桐生機械工業取締役などを務めた[2][5]。
政界では、1917年(大正6年)4月、足利町会議員に選出され、1925年3年から1945年(昭和20年)12月まで足利市会議員に在任し、この間、市会副議長、同議長も務めた[1]。1934年(昭和9年)3月から1936年(昭和11年)12月まで栃木県会議員となり、同副議長にも在任した[1]。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に栃木県第2区から立憲民政党所属で出馬して当選[2]。第20回総選挙でも当選し、その後、翼賛議員同盟に所属し、衆議院議員を連続2期務めた[2][3][4]。
1945年12月、足利市長に就任[1][4]。以後、1967年(昭和42年)4月まで連続6期市長に在任し、戦後の市勢発展の基礎の確立に尽力した[1][3][4]。1967年に第1号の足利市名誉市民となる[4]。
1982年3月、急性心不全のため足利市の足利赤十字病院で死去した[3]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年。
- 『財界二千五百人集』財界二千五百人集編纂部、1934年。