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木村伊兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村 伊兵衛
1941年
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京府東京市下谷
生年月日 (1901-12-12) 1901年12月12日
没年月日 (1974-05-31) 1974年5月31日(72歳没)
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木村 伊兵衛(きむら いへい[1]1901年12月12日 - 1974年5月31日[2])は、20世紀に活動した日本写真家戦前戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。

報道宣伝写真やストリートスナップポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。

来歴

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作風・人物像

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アンリ・カルティエ=ブレッソン (1954年、パリ〈パンテオン前〉、木村伊兵衛撮影)

ことさらにテーマを強調するのではない、演出のない自然な写真を撮ることで知られ、こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町銀座周辺とそこに生きる人々の日常を、自然な形で切り取っている。こうした作風により、木村はフランスの世界的なスナップ写真の名手・アンリ・カルティエ=ブレッソンになぞらえられ"和製ブレッソン"と言われた[7]

木村は1950年代にパリ市内やメニルモンタン界隈を撮るために渡航し、その際、ブレッソンからロベール・ドアノーを案内人として紹介された。当のブレッソン自身は写真に撮られることを極端に嫌ったが、そのブレッソンを居合い抜きのように一瞬のもとに撮ってしまった。

ポートレートにおいても、人物そのものを映し出し、自然なしぐさをも的確に撮っている。首相在任当時の池田勇人を撮る際、弟子に撮らせて自分がなかなか撮らず、池田夫人が池田の衣紋を直そうとした瞬間にさっと手持ちのライカで撮った、という逸話が残っている。池田を撮影した時のことは、長く木村の撮影助手を務めた写真家の田沼武能による回顧談が残されている[注 1]

高峰秀子 (1956年、木村伊兵衛撮影)
高峰秀子 (1947年、土門拳撮影)[注 2]

女優の高峰秀子は著書にて、「いつも洒落ていて、お茶を飲み話しながらいつの間にか撮り終えている木村伊兵衛と、人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳」と評している。

土門拳が深い被写界深度で女性のシワやシミなどもはっきりと写し出すため嫌われることが多かったのに対し、木村は浅い被写界深度でソフトに撮り、女性ポートレートの名手とうたわれた。

秋田おばこ (1953年〈昭和28年〉8月、大川西根村(現:秋田県大仙市)にて)

『木村伊兵衛傑作写真集』(1954年)にも数点が掲載されているのが秋田シリーズである。田沼武能によると、戦後に復活した『アサヒカメラ』の表紙が好評で女性ポートレートの第一人者とされた木村へ、友人の伊奈信男がアルチザン(思想を持たない職人)と批判した事への反発に始まる。商業デザイン、戦時報道のグラフ誌で斯界に大きな足跡を残した木村が、東京下町のスナップを除けば、何処にも所属せず自ら企画したのが秋田シリーズであった。個展は幾度か開かれたが、写真集『秋田』(1978年)は本人没後に刊行された。選者は三木淳森永純。『秋田』の表紙は「秋田おばこ」(1953年)というタイトルがつけられた秋田美人の一葉で、令和になっても秋田県のイメージアップ広告として使われた。

カメラにも精通しており、写真雑誌の対談にて江戸っ子らしくベランメェ口調でカメラや写真を語り、レンズに関しては「あらゆるレンズには必ず出っぱっているところと引っ込んでいるところがあり、平坦性が悪くピント位置が定まらない。ピント位置が少しでも移動すると中心が良くなったり、外側が良くなったりする。レンズは立体物を撮るのだから平面チャートで数値を問うだけではわかり得るものではない」という「デッコマ・ヒッコマ論」を説いたことでも知られる。晩年は「アサヒカメラ」誌(朝日新聞社)の「ニューフェース診断室」の実写担当ドクターも務めた。

色々なカメラを使ったが一番愛用したのはライカであり、ライカを愛用した写真家として筆頭に上げられることが多い。「ライカの神様」と呼ばれることもあった[4]ニコンFの発表会に招かれての挨拶でも「私はライカがあればそれで充分です」と言って笑ったという[9]

プロからアマチュアに至るまで多くの崇敬を集めるこのスナップの達人中の達人に、どうしたらうまく写真が撮れるのか聞いたところ、『いつでもカメラを手から離さずにいる事が大事だ』と答えたとされる。

脚注

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  1. ^ 田沼が書いた文章によると、木村の撮影助手を長く務めた後しばらくその仕事を離れていたが、ある日木村から、池田首相の写真を撮らねばならなくなったから手伝うように、との連絡があった[8]。また木村は、撮影は田沼が行うように指示していた[8]。木村はエリートや権力的人間を嫌っていたのでこの仕事をやりたくなかったようだが、木村の旧友の生活のためにやむなく引き受けたらしい[8]。実際、迎えのハイヤーの中では箱根に着くまで木村は機嫌が悪かったという[8]。撮影はホテルの会議室が使われたが、木村ではなく助手の田沼が撮影したので池田は怪訝な顔をしていた[8]。その後、撮影場所を池田の別荘に移し、孫や夫人と一緒に撮影することになった際、和室姿で庭に現れた池田の衣服を夫人が直そうとした瞬間、木村は田沼の使っていたライカをさっと取り上げて連続してシャッターを切った[8]。木村の撮った池田勇人の写真はこの時のものである。
  2. ^ 背景にTOKYO P.X.の文字が見えるので、銀座4丁目の服部時計店 (現・和光) 前の写真であることがわかる。

出典

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  1. ^ 朝日年鑑 第2巻』 : “木村伊兵衛” (p.55) 1973年 朝日新聞社
  2. ^ 12月12日は写真家・木村伊兵衛の誕生日です』 2014年12月12日 FASHION HEADLINE
  3. ^ この写真館は後に俳優小沢昭一の父が借り受けている。その後戦災で焼失。
  4. ^ a b c d e 『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.128。
  5. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、379頁。ISBN 4-00-022512-X 
  6. ^ 『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.24。
  7. ^ 三島靖『木村伊兵衛と土門拳』p.17。
  8. ^ a b c d e f 渡辺義雄、安岡章太郎、佐々木崑 ほか 編『木村伊兵衛 写真全集 昭和時代』 2巻、筑摩書房、1984年、187頁。ISBN 4480613021 
  9. ^ 『ニコン党入門』p.165。

主な没後刊の作品集

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1戦前と戦後、2よみがえる都市、3人物と舞台、4秋田の民俗
  • 『木村伊兵衛の昭和』筑摩書房「ちくまライブラリー」、1990年 - 田沼武能編、加太こうじ解説
  • 『木村伊兵衛 昭和の女たち』ちくまライブラリー、1991年 - 田沼武能編、長部日出雄解説
  • 『木村伊兵衛 日本の写真家8』 岩波書店、1998年 - 小著(入門書)
  • 『木村伊兵衛 人間を写しとった写真家』平凡社「別冊太陽 日本のこころ」、2011年 - 田沼武能監修
  • 『木村伊兵衛のパリ ポケット版』朝日新聞出版、2014年 - 田沼武能監修、新編普及版
  • 『木村伊兵衛 パリ残像』クレヴィス、2016年 - 田沼武能監修
  • 『木村伊兵衛 写真に生きる』クレヴィス、2021年 - 田沼武能・飯沢耕太郎解説
以下は大著
  • 『木村伊兵衛写真全集 昭和時代』 筑摩書房 全4巻、1984年、復刊2001年
  • 『定本 木村伊兵衛』朝日新聞社、2002年 - 田沼武能・金子隆一監修
  • 『木村伊兵衛のパリ』朝日新聞社、2006年 - 同上(1950年代のパリを撮影)
  • 『木村伊兵衛の秋田』朝日新聞出版、2011年 - 田沼武能監修

参考文献

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  • 三島靖『木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯』 平凡社、1995年/平凡社ライブラリー、2004年、ISBN 4582764886
  • 『木村伊兵衛の眼 スナップショットはこう撮れ!』 平凡社コロナ・ブックス、2007年、ISBN 4582634281 - 入門書
  • 三木淳、渡辺良一、渡辺澄晴『ニコン党入門』池田書店・実用新書 カメラ、1983年11月
  • 『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』朝日ソノラマ

外部リンク

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