木下哲三郎
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木下 哲三郎(きのした てつさぶろう、1853年2月6日(嘉永5年12月28日[1]) - 1907年(明治40年)7月30日[2][3])は、明治時代の司法官。大審院判事。
経歴
[編集]肥後熊本藩領熊本城下新屋敷町(熊本区を経て現熊本市)出身[2]。1874年(明治7年)法学試験生徒となり[1]、フランス法学を学ぶ[3]。
累進して1886年(明治19年)司法省参事官となり、1890年(明治23年)大審院判事に進んだ[1]。1891年(明治24年)ロシア皇太子を負傷させた大津事件の裁判にあたり、大審院判事として判決に関わった[3]。
ほか、会計検査官懲戒裁判所裁判官や判検事登用試験委員[1]、明治法律学校講師[4]を歴任した。1907年(明治40年)7月30日、脳溢血により死去した[2]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
- 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。
- 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年 。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。