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朝比奈元永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
朝比奈 元永
時代 戦国時代末期 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 寛永5年1月15日1628年2月19日[1]
官位 右京亮[2]
主君 今川氏真武田信玄勝頼徳川家康豊臣秀次山内一豊忠義
土佐藩 小姓頭
氏族 朝比奈氏[3]
父母 父:朝比奈信置[4]
兄弟 信良元永宗利真直信清信政、石川氏の妻、土屋円都の妻、山岡景長の妻[3][5]
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朝比奈 元永(あさひな もとなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将

略歴

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今川氏武田氏に仕えた駿河国の武将・朝比奈信置の次男[3][4]天正8年(1580年)駿河へ侵出した徳川家康勢を当目山で撃退した時には、弟の宗利とともに自ら槍を取って戦っている[1]。天正10年(1582年甲州征伐で父と兄が相次いで死亡したが、元永は駿河国内にいたために難を逃れ、家康に召し出されて井伊直政に附属させられた。しかし元永は不服だったために出奔し、浪人した[3][1]

天下統一後に豊臣秀次に招かれて仕え、秀次の没後は諸将の元を渡り歩き、文禄・慶長の役にも従軍して功があったという。その後は掛川城主・山内一豊に仕え、一豊が土佐藩主となると1,000石を知行し、小姓頭を務めた。寛永5年(1628年)没[3][1]

脚注

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  1. ^ a b c d 『士林泝洄』, p. 250.
  2. ^ 平尾 1980, p. 267.
  3. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』, p. 68.
  4. ^ a b 『士林泝洄』, pp. 248–250.
  5. ^ 『士林泝洄』, pp. 250–251.

参考文献

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  • 平尾道雄『土佐・武道と仇討ち』高知新聞企業〈平尾道雄選集〉、1980年。 
  • 名古屋市教育委員会 編『士林泝洄』 2巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1967年。 
  • 寛政重修諸家譜』 12巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0216-1