有馬山龍右エ門
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基礎情報 | ||||
四股名 | 鳴尾潟善太→鳴尾潟善太郎→鼓ヶ滝調右衛門→小野川嘉平治→有馬山滝右衛門→有馬山龍右エ門→岩見潟丈右衛門 | |||
生年月日 | 天明5年(1785年) | |||
没年月日 | 天保6年2月8日(1835年3月6日) | |||
出身 | 摂津国武庫郡(現兵庫県西宮市上田町) | |||
身長 | 182cm | |||
体重 | 135kg | |||
BMI | 40.76 | |||
所属部屋 | 小野川(大坂)→境川→勝ノ浦 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 大関 | |||
生涯戦歴 | 111勝56敗12分6預13無41休 | |||
幕内戦歴 | 84勝29敗4分4預11無41休 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1808年10月場所 | |||
入幕 | 1813年11月場所 | |||
引退 | 1824年1月場所 | |||
備考 | ||||
2014年4月5日現在 |
有馬山 龍右エ門(ありまやま りゅうえもん、天明5年(1785年) - 天保6年2月8日(1835年3月6日))は、摂津国武庫郡(現兵庫県西宮市上田町)出身の大相撲力士。身長182センチ、体重135キロであったといわれている。最高位は大関。
来歴
[編集]はじめは大坂相撲の小野川の弟子となって、鳴尾潟善太(なるおがた ぜんた)の名で取っていた。文化5年(1808年)10月江戸に下り、勝ノ浦門人として二段目に付け出される。文化6年(1809年)2月に善太を善太郎に改名、文化7年(1810年)2月に鼓ヶ滝調右衛門(つつみがたき ちょうえもん)に改名。文化10年(1813年)11月西前頭8枚目で入幕する。文政元年(1818年)10月関脇に上る。この場所の6日目に小野川嘉平治(おのがわ かへいじ)に改める。しかし小野川を抱えていた久留米藩主の有馬家と、横綱免許を授ける吉田司家から、小野川名義は横綱免許であるという強い抗議を受ける。文政2年(1819年)3月、雲州松江藩のお抱えから南部藩のお抱えに転じ、有馬山滝右衛門と改名。当時その事件を詠んで、「小野川になられぬわけが有馬山」という川柳が流行ったという。有馬山という名前は、郷里の有馬温泉付近の山に因んだという理由だが、有馬家への当てつけと噂された[1]。
文政3年(1820年)10月有馬山龍右衛門(ありまやま りゅうえもん)に改名。文政4年(1821年)10月大関玉垣の欠場をうめ西大関となり、2場所大関をつとめるが、文政5年(1822年)10月に関脇に退く。このとき、南部藩ゆかりの岩見潟丈右衛門(いわみがた じょうえもん)に改名。文政7年(1824年)正月引退する。優勝相当同点成績は4度あった。引退後、天保4年(1833年)7月に小野川嘉平治を襲名するが、年寄にならずして天保6年2月8日(1835年3月6日)に死去する[2]。享年51。
主な戦績(江戸)
[編集]- 通算幕内成績:84勝29敗4分4預11無41休 勝率.743
- 幕内在位:18場所
- 三役在位:12場所(関脇9場所、小結1場所)
- 大関在位:2場所
場所別成績
[編集]春場所 | 冬場所 | |||||
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1808年 | x | 幕下付出 – |
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1809年 | 西幕下14枚目 – |
西幕下14枚目 – |
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1810年 | 西幕下11枚目 – |
西幕下12枚目 – |
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1811年 | 西幕下10枚目 3–1 2分 |
西幕下9枚目 2–5 1預 |
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1812年 | 西幕下8枚目 2–3 |
西幕下6枚目 2–4 1分 |
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1813年 | 西幕下筆頭 2–3 1分1預1無 |
西前頭8枚目 0–0–10 |
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1814年 | 番付非掲載 不出場 |
西前頭5枚目 5–3–1 1預 |
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1815年 | 西前頭3枚目 4–1–2 1分1預1無 |
番付非掲載 不出場 |
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1816年 | 番付非掲載 不出場 |
西前頭3枚目 6–3 1無 |
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1817年 | 西前頭2枚目 6–2–2 |
西前頭筆頭 5–1–3 1分 |
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1818年 | 番付非掲載 不出場 |
西関脇 6–2–1 1分 |
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1819年 | 西関脇 5–1–2 1預1無 |
西関脇 7–2–1 |
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1820年 | 西関脇 4–0–1 1無 |
西小結 6–2–1 1無 |
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1821年 | 西関脇 5–2–1 2無 |
西大関 5–3–2 |
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1822年 | 西大関 7–2 1無 |
西関脇 5–2–2 1無 |
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1823年 | 西関脇 6–1 |
西関脇 2–2–2 1分1預2無 |
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1824年 | 西関脇 引退 0–0–10 |
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各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 当時は十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。
- 二段目11枚目以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。
改名歴
[編集]- 鳴尾潟善太 - 1808年10月場所
- 鳴尾潟善太郎 - 1809年2月場所 - 1809年10月場所
- 鼓ヶ滝調右エ門 - 1810年2月場所 - 1818年10月場所5日目
- 小野川嘉平治 - 1818年10月場所6日目 - 同場所千秋楽
- 有馬山滝右エ門 - 1819年3月場所 - 1820年3月場所
- 有馬山龍右エ門 - 1820年10月場所 - 1822年1月場所
- 岩見潟丈右エ門 - 1822年10月場所 - 1824年1月場所
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『古今大相撲力士事典』景山忠弘・小池謙一 1989年10月国書刊行会