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月野純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

月野 純(つきの じゅん、1965年昭和40年)8月6日 - )は、日本の小説家、政治学者、法学者

来歴

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大阪市阿倍野区に生まれる(戸籍届)。幼少時代から大阪市住吉区で育つ。父親の趣味が種類を問わず書籍を毎日のように購入することであった。父親自身はほとんど本を読まなかった。しかしまだ文字も読めなかった頃から本人は書籍に親しみやがて本を読みあさるようになる。そのためか幼少の頃から文章能力には秀でたものがあり6歳の幼稚園児の時に書いた作文は内閣総理大臣賞を受賞しそのため父母と三人で授賞式のため初めて上京し首相官邸を訪れた。 また小学校時代の友人に日本の量子コンピューターの研究の先駆けとなった京都大学出身の末広謙二(日本電気)にがいる。

大阪市立小学校及び中学校の時は「特に社会の授業時間で政治的に左翼に偏った話しかしない大阪教育大学出身の日教組の教師たちに我慢出来なかった。そのため教師陣からも本人は嫌われて大阪府立高校の学区1番高校に必要な内申書の数値が得られず大阪星光学院高等学校に入学した。

またスポーツは小学生の頃はリトルリーグ、中学生時代はサッカーのクラブチーム、高校時代はアメリカンフットボールのクラブチームに所属していた。どれもクラブチームでの選手生活であり部活における上下関係が「何の生産性もない馬鹿らしいもの」と公言していた。[要文献特定詳細情報]

中央大学法学部政治学科に進学したがその傍らで脚本家及び放送作家をしていたためほとんど多摩キャンパスに通うことはなかったという。しかしその代わりに「時間が少しでも開けば」東京大学などの都心の大学の図書館に行き幼少時代からの読者好きは変わらなかった。大学及び大学院時代は政治学と法学の専門書ばかりを読んでいたと自著で述べている。[要文献特定詳細情報]学士時代のゼミナールは金原左門に師事しロッキード事件に関して論文を書いている。

法学においての本人の基本テーマは死刑制度安楽死である。

どちらも憲法に関わる争点でありこれは師事した長尾一紘の影響によるところが大きい。 死刑制度には本人は反対の立場である。それが決定的な事件は袴田事件である。本人は死刑判決の決定的な証拠となった被害者の血痕の付着したシャツはねつ造されたものであり「検察の実働部隊」と言える警察が仕組んだものであると考えている。このことは三権分立の形骸化の極みとして日本国憲法の危機的状況の証左であると語った。 また安楽死についてはその国の宗教観による死生観が大きく左右するものだと語ると共に日本において安楽死を法制化するのは難しいとの考えを持っている。その理由は本人の意思は絶えず揺れ動くものであり安楽死の違法性阻却事由 の学説的な要件の「本人の意思」を担保することは困難なためとの考えによるものである。

英語は堪能だったが若い頃は周りの人間にはその事を教えなかったらしい。それは大学時代に帰国子女枠で入学したクラスメートが「ただ外交官の息子というだけで学力が小学生レベルで下劣な発音の英語を話せるだけの人間が同じ大学学部学科にいたことに嫌悪感を抱いた」ためだったと言われている。また高校時代には京都大学文学部中国文学科卒業の国語の教師の自宅に出入りしていたために簡単な中国語は話せた。その教師の影響で高橋和巳の全ての小説を読み大きな影響を受けたと言われている。特に高橋の代表作のひとつである「我が心は石にあらず」を読んでからは現在の経営陣寄りの企業別組合には否定的な考えを持つようになったと言われている。また教師が酔って機嫌よく「長恨歌」をいつも詠うため本人も自然に詠えるくらいになった。そのため放送作家として中国大使館に訪れた時に夕食をご馳走になり「見た事もない高級な中国料理や老酒を悔いのないようにたっぷりと飲食させてもらい酔って「感情を込めて」長恨歌を原語で詠い中国大使を初め大使館の皆さんから大きな拍手をもらうとこれが芸は身を助けるというものかと心から思った」と話している。

1990年に結婚し二人の女児を得るも離婚した。

その後神奈川県庁に上級職で入庁し神奈川県鎌倉市に引越するも「神奈川県庁は高校が神奈川県立高校の学区1番高校でないと自殺させられるほどに働かせられるだけのただの田舎の役所だった」ので職を辞した。これは当時同じ企画部市町村課にいた愛媛県出身の礒崎初仁中央大学法学部や大阪府出身の出口裕明神奈川大学法学部教授も同様の発言をしている。

辞職後弁護士法人に勤めた後に東京大学法学部大学院法学政治学研究科において後期博士課程に進んだ。この時に西部邁と出会い政治学の視野が拡がったと周りに話している。

その後2度目の結婚をし医師の妻と二人でアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市に移住するも離婚し単身帰国した。

鎌倉市に居を得て3度目の結婚をする。