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曹 詢(そう じゅん、231年 - 244年)は、中国三国時代の魏の皇族。一般的には「秦王」と記載されている。兄弟は曹芳(斉王)。
曹叡(明帝)の子が相次いで夭折したため、親族であった曹詢と曹芳の兄弟は養子に迎えられ、養育されていた。だが曹詢・曹芳の経歴ははっきりと判明してはいない[1]。
青龍3年(235年)8月、曹芳と共に王に立てられ、曹詢は秦王となった。
景初3年(239年)正月、曹叡は崩御の際に曹詢を枕元に呼び、司馬懿を後見人とする旨を告げた[2]。
正始5年(244年)8月に嗣子がないまま早世した。 同年11月、秦国は京兆郡に編入し直された。
- ^ 『三国志』魏書斉王紀では、曹芳・曹詢の実父は記されておらず「由来を知る者はない」とされている。ただし、裴松之注が引用する孫盛の『魏氏春秋』には、済南王曹楷(曹操の孫で、曹彰の嫡子)の子という説が記されている。
- ^ 裴松之引用の『魏略』による。また『魏氏春秋』によれば、このとき曹芳は8歳、曹詢も9歳であったとされる。