曹楷
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曹楷 | |
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続柄 | 任城王第一王子 |
全名 | 曹楷 |
身位 | 王(魏)→県公(西晋)[要出典] |
子女 |
曹温 曹悌 |
父親 | 任城王曹彰 |
役職 | 崇化少府 |
曹 楷(そう かい、生没年不詳)は、中国三国時代の魏の皇族。
生涯
[編集]黄初4年6月17日(223年8月1日)[1]、父の任城王曹彰が没すると中牟県に国替えの上で、その後を継いだ。黄初5年(224年)に任城県、太和6年(232年)に任城郡に改封され、食邑として5県2500戸を与えられた。
青龍3年(235年)、自分の官属を中尚方[2]の元に派遣し禁物を作らせたとして、食邑2000戸を削られた。
正始7年(246年)、済南郡に改封され、3000戸を領した。正元年間、景元年間に続けて加増を受け、食邑は4400戸に昇った。
西晋の時代に当たる泰始年間の初め、宗正の官を経て、皇太后の王元姫が居する崇化宮の少府に任命された[3]。
子女
[編集]- 曹悌 - 太和5年(231年)、元城王曹礼の後を継いだ。太和6年(232年)、梁王に改封された。以降も加増を受け、食邑は4500戸に昇った[4]。
- 曹温 - 太和5年(231年)、邯鄲王曹邕の後を継いだ。太和6年(232年)、魯陽王に改封された。以降も加増を受け、食邑は4400戸に昇った[5]。
また、『三国志』斉王紀の注に引く『魏氏春秋』によると、魏の第3代皇帝曹芳の実父とされるが、盧弼の『三国志集解』では疑義が呈されている。
出典
[編集]- 陳寿撰、裴松之注『三国志』巻19 魏書 任城威王彰伝(中国語版ウィキソース)