暴顕
暴 顕(ぼう けん、503年 - 568年)は、中国の北魏末から北斉にかけての軍人。字は思祖。本貫は魏郡斥丘県[1][2][3]。
経歴
[編集]北魏の恒州刺史・左衛将軍の暴誕の子として生まれた。騎射を得意とし、孝荘帝の狩猟に参加して、1日のうちに禽獣73匹を仕留めた。中興元年(531年)、襄威将軍・晋州車騎府長史に任ぜられた。高歓による信都での起兵に参加し、中堅将軍・散騎侍郎・帳内大都督となり、安東将軍・銀青光禄大夫を加えられ、屯留県開国侯の爵位を受けた。東魏の天平2年(535年)、渤海郡太守となった。元象元年(538年)、雲州大中正をつとめ、武衛将軍を兼ね、鎮東将軍を加えられた。元象2年(539年)、大都督・北徐州刺史となった。武定元年(543年)、高歓の下で邙山の戦いに参加し、河橋鎮を守り、中潬城に拠った。武定2年(544年)、征南将軍・広州刺史に任ぜられた[4][5][3]。武定5年(547年)、侯景が河南でそむくと、暴顕は侯景に誘い出されて、捕らえられた[6][7][8]。東魏の慕容紹宗らが侯景を追撃し、侯景が渦陽に撤退すると、暴顕は慕容紹宗に降った[9][10]。武定6年(548年)、暴顕は太府卿となった。高澄の下で王思政を潁川に攻撃し、潁州刺史に任ぜられた。武定7年(549年)、鄭州刺史に転じた。武定8年(550年)、驃騎将軍の号を加えられ、爵位は公に進んだ。天保元年(同年)、北斉が建国されると、鄭州刺史のまま、衛大将軍の位を加えられた。天保3年(552年)、清河王高岳とともに歴陽を襲撃して落とした。財貨を隠匿した罪で、鄭州刺史を解職された。処分が終わらないうちに、合肥が梁軍に包囲されたため、歩大汗薩や慕容儼らとともに梁の北徐州を攻め、刺史の王強を捕らえた。梁の秦州刺史の厳超達と涇城で戦い、これを撃破した。天保5年(554年)、儀同三司の位を受けた。高岳とともに南方の漢水に進出し、梁の楚州に攻め下り、刺史の許法光を捕らえた。梁の蕭循や侯瑱らが慕容儼を郢州で包囲すると、暴顕は水軍大都督となり、灄口から長江に入って慕容儼を救援した。凱旋すると、開府儀同三司の位を加えられた。乾明元年(560年)、車騎大将軍に任ぜられた。皇建元年(同年)、楽安郡開国公に改封された。皇建2年(561年)、趙州刺史となった。河清元年(562年)、洛州刺史に転じた。河清2年(563年)、朔州刺史となった。天統元年(565年)、特進・驃騎大将軍の位を加えられ、定陽王に封ぜられた。天統4年(568年)、66歳で死去した[11][12][13]。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 『梁書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00311-7。
- 『南史』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00317-6。