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余慶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
智弁から転送)
よけい
余慶
延喜19年 - 正暦2年2月18日
919年 - 991年4月5日
諡号 智弁
尊称 観音院僧正、観音僧正、観音院
生地 筑前国早良郡
宗派 天台寺門宗
寺院 延暦寺園城寺法性寺大雲寺観音院
明仙
弟子 勧修勝算慶祚真義
大雲寺
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余慶(餘慶, よけい)は、平安時代中期の天台宗の僧。俗姓は宇佐氏諡号智弁(智辨, 智辯, ちべん)。円珍門徒(後の天台寺門宗)の高僧であり、彼の法性寺座主天台座主就任によって、山門寺門の争いが先鋭化した。彼の大雲寺京都市左京区)の観音院にちなみ観音院僧正とも言われる。

略歴

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延喜19年(919年)、誕生。筑前国早良郡の出身とされるが[1]、一説によれば日向国の出身ともいう。比叡山明仙から天台教学を学び、行誉から灌頂を受けた。

応和3年(963年)8月21日、応和相論にて一日目発願・無量義講の問者を務めた[2]

康保4年(967年)3月11日から18日、東宮憲平親王の病のため、長燭とともに不断法を修した。「余慶、東宮を加持する間、邪気、頗る調伏の気色有り」と評され、延長を依頼されたが、「堪うべからず」と断った[3]

天延2年(974年)閏10月3日、藤原義孝四十九日法要を修する[4]

天元2年(979年)に園城寺長吏となる[5]

山門寺門の争い

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根本中堂供養会問題

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天元3年(975年)9月3日、延暦寺根本中堂完成供養会で、衲衆第一位を務める。この供養会には少僧都尋禅東寺寛空興福寺別当定照らが職僧として招かれた一方で、余慶ら千光院派の僧は一人も職僧になっていなかった。これを不服とする千光院派の僧の朝廷への訴えで、余慶が衲衆第一位を務めることになったという。平林盛得はこの事件に、円仁門徒の天台座主良源と円珍門徒の対立を指摘している[6]

法性寺座主就任問題

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天元4年(981年)7月13日には円融天皇の病のため、金剛夜叉法を修し、権少僧都から権大僧都に昇った[7]

同年11月29日には法性寺座主となるも、円仁派が「法性寺座主は、建立以来頼、円仁門徒がついている」と反対し、僧182人以上で関白太政大臣藤原実頼邸に押し掛けた。このため12月13日に、法性寺座主を辞任した[8]。この事件は比叡山僧の最初の示威行動とみられている[9]。このことで、余慶は数百僧を連れて、比叡山を去って、自身の建立した大雲寺観音院へ移った[10]

明けて5年(982年)1月9日、平恒昌が比叡山に登り、「座主良源は余慶・穆算ら5人を殺したがっていると聞く」とする綸旨を与えた。天台座主良源は「殺人は大罪である。(中略)法性寺のことで門徒が愁訴したことは、各身の利益名聞のためでなく、ただ一門の旧跡を墜さないためである。」と否定した[11]

この後2月15日、円融天皇に戒を授けたため、天皇から御襲・表御袴を給わった。また、3月21日は仁寿殿で不動法を修し、5月16日には禁裏の御修善を行った[12]。平林はこれらを余慶への慰留だとしている[13]。このほか3月25日には、季御読経の呪願をし、27日の論議にも出席した[12]

観音院時代

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永観元年(983年)7月13日、御所で北斗法を行う[12]。2年(984年)10月21日と11月28日、例講の証者を務めた[12]

寛和元年(985年)1月22日、仁寿殿で不動調伏法を修した[12]。同年8月29日、円融上皇が出家し、余慶が三聚浄戒を授けた[12]

永延2年(988年)10月3日、藤原実資らが、観音院を訪ね、余慶と清談した[12]永祚元年(989年)6月28日、藤原頼忠の葬儀で、呪願を務める[12]

天台座主就任問題

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永祚元年(989年9月29日天台座主に就任し[14]、10月7・8日、慶賀・賜禄のため参内した[12]

しかし、10月29日、山門派に藤原在国が運んでいた任命の宣命(天皇の命令書)を奪取されてしまう[14]。また前夜には、余慶が灌頂のため兵を率いて比叡山に登っていたところ矢を射かけられ、合戦となった。しかし、矢に当たるものはいなかったという[15]

これを受け、12月2日、余慶は観音寺にて宣命使源時方に天台座主の印鎰を渡し[16]12月27日、天台座主を辞任した。同日、代わりに権僧正に任じられた[17]。当時の宣命の文中には山門派の門徒のことを獅子身中の虫と断じている。

円珍の門流である寺門流は余慶によって発展し、その後山門派・寺門派の対立が激しくなるきっかけとなった。

入滅

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正暦2年2月18日991年4月5日)、入滅、享年73歳[18]長保3年(1001年)2月、余慶門徒が智弁の諡号を申請[19]寛弘4年(1007年3月19日、智弁の諡号を贈られる[20]。墓所は大雲寺に現存する。

弟子には、勧修勝算文慶慶祚、義観[21]真義[22]、文慶[23]がいる。

脚注

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  1. ^ 『扶桑略記』正暦2年閏2月18日。『元亨釈書』
  2. ^ 平林, p.70
  3. ^ 『延喜天暦御記抄』御修法事
  4. ^ 『親信卿記』
  5. ^ a b 『元亨釈書』
  6. ^ 平林, pp.156-158
  7. ^ a b c 平林, pp.163-164
  8. ^ 『扶桑略記』、『小記目録』、平林, pp.164-165
  9. ^ 平林, p.165
  10. ^ 平林, p.166
  11. ^ 『扶桑略記』、平林, pp.167-168
  12. ^ a b c d e f g h i j 『小右記』
  13. ^ 平林, p168
  14. ^ a b c 『日本紀略』
  15. ^ 『小右記』永祚元年10月29日
  16. ^ a b 『扶桑略記』
  17. ^ 『小右記』、『日本紀略』
  18. ^ a b 『小記目録』、『日本紀略』、『扶桑略記』、『元亨釈書』
  19. ^ 『権記』長保3年2月17日
  20. ^ a b 『御堂関白記』
  21. ^ 水口幹記続・東京大学史料編纂所蔵実相院本『大雲寺縁起』について : 付、「大雲寺諸堂目録」「当寺名哲之系図」翻刻」『藤女子大学文学部紀要』第54巻、藤女子大学、2017年3月、15頁、CRID 1050282677868851584ISSN 2187-4670NAID 120006328846 
  22. ^ 『元亨釈書』「真義」
  23. ^ 文慶』 - コトバンク
  24. ^ 『親信卿記』天延2年5月20日
  25. ^ a b 『小記目録』

参考文献

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関連項目

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