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晒し首事件 (シンガポール)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

晒し首事件(さらしくびじけん)とは、1942年7月7日頃、日本軍占領統治下のシンガポール(当時の昭南特別市)で、「殺人強盗団を射殺し、首をはねて主要な橋や交差点に見せしめにした」とされる出来事[1]

経過

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1942年7月7日頃[2]、市内の目抜き通りオーチャード・ロード沿いのキャセイ劇場英語版の前のテニスクラブの脇に獄門台が設けられ、血だらけの生首4つが晒されていた[3]。獄門台には漢字で書かれた告示がはってあり、インド人らしい名前の8人が軍用倉庫に盗みに入って捕えられ、軍事法廷によって斬首、晒し首の刑に処せられたと書かれていた[4]。8人のうち残りの4人の生首は、1つがゲラン橋のたもと、1つがビクトリヤ記念堂の前、あと2つがパシル・パンジャンに晒されていたとされる[5]

当時、昭南憲兵隊の分隊長だった大西覚によると、当時の食糧難から日本軍の貨物廠が襲われる略奪事件が多発したため、警備隊は無断侵入者を射殺すると公示しており、その後侵入してきたインド人3人を警戒兵が射殺し、見せしめのため射殺理由書をかかげて晒し首にしたものだった[6]

大西は、憲兵隊は事件に関与しておらず、命令者も実行者も不明としているが、参謀の諒解があったとしており[7]、当時第25軍司令部宣伝班の班員だった中島健蔵は、軍宣伝班内での情報として「乱暴者の作戦参謀が独断でやらせた嫌がらせ」と聞いたとしている[8]

影響

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7月7日は盧溝橋事件の記念日にあたり、同年2月に華僑粛清があったため、中国系住民の抗日行動を警戒した日本軍が先制的に見せしめに出たとの見方がある[9]。他方で、日本軍は同日を意識して華僑通電を計画していたが、これは(おそらく中国系住民の感情を逆撫でするとの懸念から)中止されていたことから、既述のとおり「乱暴者の作戦参謀が独断でやらせた嫌がらせ」だったとの見方もある[10]

軍としての作戦ではなく実行者も不明であり凶悪犯の処刑であるとはいえ、蛮行と捉えられ日本軍の軍政に対する不信感や悪感情につながったともされる[11]。中島(1977)は、

処刑されたのは、凶悪犯人かもしれない。しかし、斬首とか、さらし首とかいう行為は、違法であり、蛮行であった。一人の参謀のいたずら半分の思いつきだったかもしれない。しかしその1人の蛮行の結果が、日本人全体に対する悪感情となることは明らかだった。それを制止しなかった、という現実を、どう弁解してもむだである。

としている[8]

また洪(1986)は、晒し首にされたのはマレー人で、占領当初日本軍はマレー人に対して寛容だったが、事件を契機にマレー人に対する態度を硬化させたとしている[12]

盧溝橋事件の記念日を期した中国系住民の抗日行動を牽制する目的があったともいわれ、日本軍政の残虐さやをシンガポールに知らしめる出来事であるという主張もみられる[13]。一方、リー・クアンユーは、この事件がシンガポールに秩序回復をもたらしたとし[1]、「私は、刑罰では犯罪は減らせない、という柔軟な考えを主張する人は信じない。」という信念を得たとも述べている[14]

タイピンの晒し首

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第25軍司令部宣伝班の班員として従軍していた井伏鱒二によると、シンガポール占領より前の1942年1月2日頃、タイピンの宿舎近くの大通りに獄門台が置かれ、生首が3つ並べられて罪状を記した「布告」が日本語・英語・中国語・印度語・マレー語の5ヶ国語で記されていた[15]。宣伝班の中では、辻政信作戦主任参謀が決裁して、タイピン山中で敗残兵狩りに来た日本兵を猟銃で狙撃した現地住民を、英軍に呼応した義勇兵とみなして制裁を加えたものと噂されていた[15]

脚注

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  1. ^ a b リー・クワンユー 2000, p. 32.
  2. ^ 馬(1986) 106頁は「7月6日」、中島(1977) 143頁は「浅間丸が停泊中の7月7日の夜」、洪(1986)155頁は「8,9月」、シンガポール市政会(1986) 374頁は「1942年6月頃」、大西(1977) 149頁は「昭和17年春頃と思うが日時は明瞭でない」、篠崎(1976) 37-38頁は「時期不定だが、占領初期の話」としている。
  3. ^ リー(2000) 41-42頁および馬(1986) 106-107頁がこの生首を見たとしている。生首の数は馬(1986) 107頁による。
  4. ^ 馬(1986) 106-107頁。リー(2000)は、告示が漢字で書かれていて読むことができなかったことが中国語を勉強する契機になったとしており、また生首は華人男性だったとしている(リー(2000)41-42頁)
  5. ^ 馬(1986) 106-107頁。洪(1986)155頁では生首は9つ。篠崎(1976) 37-38頁では8つの生首が2つずつ市内4箇所に晒されていたとされ、シンガポール市政会(1986) 374頁では市内の目抜きの道路脇3箇所に置かれていたとしている
  6. ^ 大西(1977) 149頁。人数は篠崎(1976)37-38頁、馬(1986) 107頁では「8人」、洪(1986)155頁では「9人」。中島(1977) 133-138頁では第25軍司令部宣伝班内の情報として「日本軍の歩哨を襲ったマライ人の強盗集団」としており、洪(1986)は「彼ら(マレー人)が調子にのって港湾局の倉庫を集団で略奪し、歩哨の日本兵を撃ち殺すに及んで」、シンガポール市政会(1986) 374頁は「強盗団は軍の倉庫を襲って歩哨1人を殺害した」としている。
  7. ^ 大西(1977) 149頁
  8. ^ a b 中島(1977) 133-138頁
  9. ^ 馬(1986) 106-107頁
  10. ^ 中島(1977) 133-138,143頁。なお「嫌がらせ」としているのは、翌日中島はシンガポールに寄港した交換船浅間丸に乗船していた中立国人を、市内を通り抜けてブキテマの戦跡へ案内することになっていたため。中島は当日晒し首を目撃されないようにしたとしているが(同)、大西(1977) 149頁には「これを目撃した中立国人はもちろん、現住民も」日本軍の行為を顰蹙、非難した、とある。
  11. ^ 大西(1977) 149-150頁、中島(1977) 133-138頁。馬(1986)は、多くの人は怖がって道路の反対側の歩廊から眺めていたとし、翌日の7月7日は重苦しい1日になったとしている(馬(1986) 106-107頁)。他方でリー(2000)はキャセイ・シネマの入口付近には人だかりができていたとし、日本人に恐怖を感じながらも、近代的なビルとその前で行われた「中世の刑罰」との対比を写真に撮っておきたいと思ったとしている(リー(2000) 41-42頁))。
  12. ^ 洪(1986) 155頁
  13. ^ この記事の主な出典は、リー(2000)32-54頁、シンガポール市政会(1986)374頁、洪(1986)155頁、馬(1986)106-107頁、大西(1977)149-150頁、中島(1977)133-138,143頁および篠崎(1976)37-38頁。
  14. ^ リー・クワンユー 2000, p. 54.
  15. ^ a b 井伏(1998b) 314頁

参考文献

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  • リー・クアンユー『リー・クアンユー回顧録(上)』日本経済新聞社、2000年。ISBN 978-4490204476 
  • 井伏(1998b): 井伏鱒二「続徴用中の見聞」『井伏鱒二全集 第26巻』筑摩書房、1998年10月、253-321頁。 :ISBN 448070356X
  • シンガポール市政会(1986): シンガポール市政会編『昭南特別市史-戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、1986年8月。
  • 馬(1986): 馬駿「2 壬午新年の日本軍進駐」許雲樵・蔡史君(原編)、田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年5月(初出は『新明日報』1984年4月22日)、103-107頁。 :ISBN 4250860280
  • 洪(1986): 洪錦棠「7 日本軍と各民族」許雲樵・蔡史君(原編)、田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年5月(初出は『新明日報』1984年4月22日)、148-157頁。 :ISBN 4250860280
  • 大西(1977): 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、1977年4月。
  • 中島(1977): 中島健蔵『雨過天晴の巻 回想の文学5 昭和17年-23年』平凡社、1977年11月。
  • 篠崎(1976): 篠崎護『シンガポール占領秘録―戦争とその人間像』原書房、1976年。

関連項目

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