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明王太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
歌川国芳『大山石尊良辧瀧之図』

明王太郎(みょうおうたろう、異字体:明王太良)は、相模国大山の堂宮大工が代々襲名した名跡。伝承では約1300年、記録に残る限りでは500年以上にわたって明王太郎の名と大工技術を継承し、相模国を中心に武蔵国甲斐国駿河国で神社仏閣や城郭の建築に携わった。近世以降は神輿の製作も多く手がけ、「大山流」と称される相州神輿の一つの型を成した[1]。江戸後期には白川伯王家の裁許を得た神職として建築に関わる諸祭儀を執り行っていた。

江戸時代初期から120年以上「田中明王太郎」を名乗ったが[2]、江戸時代中頃の明王太郎景直の代から手中姓を名乗り、以後は手中明王太郎の名を世襲した。明王太郎の残した文書は子孫の手中家当主によって神奈川県に寄託され「手中家文書[注釈 1]」として神奈川県立公文書館に保管されている。

菩提寺は長く一族が住んでいた旧大住郡糟屋庄秋山郷にある洞昌院。累代の墓碑も同寺にある[3]

解説

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家祖の伝説

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新編相模国風土記稿』によれば、明王太郎の家系は奈良時代まで遡る。家祖は名を金丸太郎文観といい美濃国岐阜に住んでいた。文観は十六歳のとき聖武天皇の勅により東大寺造立の棟梁を務め、後に東大寺初代別当良弁僧正に従って相模国に下り、勅願によって開かれた大山寺の造営でも棟梁を務めた。そのとき大山寺本尊 不動明王のお告げがあり、以降は「明王太郎」と称して代々の名跡とし、大山寺・大山阿夫利神社の修造には必ずその子孫が棟梁を務めるようになったとされる[3]

記録上の初見

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「明王太郎」の最も古い記録は、平塚市南金目にある光明寺(金目観音)明応2年(1493年)の墨書である。境内入り口の仁王門に立つ吽形の金剛力士像躰内に仏師「下野法眼弘円」の名とともに「大工明王太郎末孫吉宗[注釈 2]」の銘があり、明王太郎が仁王門造立に携わっていたことが確認される[3][4]

明王太郎の名が次に現れるのは平塚市岡崎に鎮座する駒形神社の棟札で、天文16年(1547年)のものに「大工秋山郷明王太郎」とある[注釈 3]ほか、永禄11年(1568年)の同神社棟札[注釈 4]にも「大工秋山郷明王太郎」の名がある。また天文20年(1551年)に行われた高部屋神社の社殿再興で大工を務めた記録もあり、少なくとも室町時代までには宮大工として広く活動を行っていた。

江戸時代からの活動

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近世以降の明王太郎のあゆみは棟札や文書に多く残されている。関係の深い大山寺を中心に相州の寺社造営を広く手がけ、相模国の延喜式内社13社のうち半数の造営に携わるなど、格式ある神社からも信頼を寄せられていた。また相州以外にも活動範囲を広げ、幕府の事業である日光東照宮修復、江戸城西の丸普請、京都御所清涼殿普請、江戸城本丸造営にも参加している。

安永2年(1773年)、工匠明王太郎一門の祖神を意味する「明王工門霊神(みょうおうぐとのれいじん)」の神号を白川伯王家より授かり、以降は祖神として明王太郎文観を祀った[3]

江戸時代中期以降の明王太郎は神輿の造営も手がけている。相州二宮の梅宮流に対して「大山流」と呼ばれ、相州神輿の双璧を成した。

昭和26年(1951年)に手中明王太郎景堯が亡くなり跡を継ぐ者がいなくなったことで、宮大工棟梁としての明王太郎はその歴史に幕を下ろした。

明王太郎代々

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  • 初代明王太郎文観(金丸太郎、神号:明王工門霊神)
    金丸左衛門尉信常の子。東大寺造立の功績で従六位下を賜り、飛騨守に任ぜられたという。宝亀5年八月二十八日没。
  • 明王太郎末孫吉宗
    明応2年(1493年)に光明寺仁王門を造立した。
  • 田中明王太郎影吉
    元和9年(1623年)に平塚市岡崎の駒形神社を造営した。
  • 田中明王太郎吉當(別名:金丸神太郎)
    元禄3年(1690年)の日光東照宮修復に参加したほか、4度の大山寺造営に携わり、内3度は棟梁を務めた。理由は不明だが、江戸表では「金丸神太郎」を名乗ったと言われる。
  • 田中明王太郎當是
    享保19年(1734年)、現在の前鳥神社本殿を造営したとされる。
  • 手中明王太郎景直(別名:金丸彦五郎、神号:明王規巧霊神)
    當是の子。江戸城や京都御所の造営に関わり、大山石尊社を再建した。伊勢原市日向の石雲寺本堂、平塚市田村の八坂神社社殿が現存している。天明5年(1785年)に造られた上秦野神社神輿が現存し、明王太郎の手による最古の神輿として知られている。優れた技術とともに筆まめとしても知られ、自身の大工技術に関わる書物を多く書き残し、継承に努めた。
  • 手中明王太郎景喜
  • 手中明王太郎信景
    大住郡中荻野村に直右衛門の次男として生まれる。景直に弟子入りし、腕を見込まれて婿養子となって明王太郎を継いだ。文化4年(1807年)に手がけた横浜市岡津の三島明神社本殿が現存している。
  • 手中明王太郎景定
  • 手中明王太郎敏景(師職として:小川監物)
    信景の子。江戸城本丸普請に作事方として加わった。寺社建築では天保6年(1835年)に建てた高尾山薬王院表門などが残る。次代の景元は前鳥神社旧大神輿[注釈 5]を敏景の作と記録している。
  • 八十九世手中明王太郎景元(忌部景元)
    文政2年(1819年)に鎌倉郡平戸村 田中小兵衛の三男として生まれる。敏景に弟子入りし、腕を見込まれて婿養子となって明王太郎を継いだ。幕末から明治にかけて名工として活躍し、多くの寺社建築に卓越した技術を残す。寺社の普請や当時の世情[注釈 6]を詳細に日記に記録する筆まめで、後に「明王太郎日記」と呼ばれる百冊以上の日記帳は、この時期の相州の市井を知る上で資料価値が高い[2]。神輿の製作にも秀で、前鳥神社神輿の「ギアマン張り二重露盤」に見られるような斬新な発想と神輿の重厚さを両立させ、相州神輿の傑作を多く生み出した[5]。明治39年(1906年)3月、86才で死去。
  • 九十世手中明王太郎景堯(忌部景堯)
    明治4年(1871年)に景元の三男として生まれる。幼名は五郎。明治39年(1906年)に手中明王太郎景堯を襲名。景元に劣らぬ技術で神奈川県の寺社・神輿を多く手がけている。大正8年(1919年)、父景元が製作した前鳥神社神輿の木割に基づいて秦野市乳牛町内の乳牛神輿を製作した。この時47才、円熟期のもので白眉の代表作される。昭和26年(1951年)、跡継ぎのないまま景堯が79才で死去したことで、堂宮大工としての明王太郎の歴史に終止符が打たれた[注釈 7]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「手中明王太郎家文書」とされる場合もある。
  2. ^ 手中正はこの「末孫」の表記を、少なくとも「吉宗」の数代前から先祖の明王太郎が活躍していた証拠としている。
  3. ^ 実物は現存しないが、幕末の地誌『新編相模国風土記稿』に棟札の全文が記録されている。
  4. ^ 他10枚の棟札とともに「駒形神社棟札・勧化札」として平塚市の文化財に指定されている。
  5. ^ 文久元年(1861年)、神輿新造のために秦野市曽屋神社へ金六十五両で売却された。
  6. ^ コレラの蔓延、黒船来航、生麦事件など、幕末の江戸に於ける重大事件の情報をいち早く手に入れ、日記に記録している
  7. ^ 手中家は2018年現在も存続。明王太郎研究の第一人者である手中正氏はこの末裔。

出典

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  1. ^ 監物 恒夫; 高橋 一郎; 清水 貞行 (1985年5月10日). 『相模の神輿 -神奈川の神輿-』. 株式会社アクロス 
  2. ^ a b 手中 正; 小沢 朝江 (2017年8月20日). 『明王太郎日記 上 堂宮大工が見た幕末維新』. 東海大学出版部 
  3. ^ a b c d 手中 正 (1991年4月10日). 『宮大工の技術と伝統 神輿と明王太郎』. 東京美術 
  4. ^ 平塚市文化財 木造 金剛力士立像 2躯”. 平塚市役所. 2018年12月6日閲覧。
  5. ^ 平塚市博物館 編 (2018年3月17日). 『四之宮 前鳥神社 -その神輿と地域の信仰-』. 山恊印刷株式会社