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昌平橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昌平橋
昌平橋
上流側左岸より(2008年8月)
基本情報
日本の旗 日本
所在地 東京都千代田区
交差物件 神田川
設計者
施工者
東京市土木課技手・小池啓吉(設計)
建設 1922年-1923年4月(新造時)
1928年1月-1928年12月(改修第一期)
1929年11月-1930年2月(改修第二期)
座標 北緯35度41分54秒 東経139度46分08秒 / 北緯35.69833度 東経139.76889度 / 35.69833; 139.76889
構造諸元
形式 RC固定充腹式アーチ橋
材料 鉄筋コンクリート
全長 23.770 m
39.180 m
(車道橋と人道橋の隙間部分を含む)
高さ 23.6(約7.15 m、基礎から橋面まで)
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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東京都道405号標識

昌平橋(しょうへいばし)は、東京都千代田区にある、神田川に架かるの一つ。外堀通り上にあり、上流側・下流側に歩行者用の橋(人道橋)が併設されている。

概要

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駿河台下および外神田の神田川に架橋の中で古くから存在する橋が「昌平橋」である。橋の北は千代田区外神田一丁目・同二丁目、南は千代田区神田淡路町二丁目・神田須田町一丁目で、北側の総武本線松住町架道橋・南側の中央本線昌平橋架道橋(昌平橋ガード)に挟まれた場所にある。秋葉原電気街の南西端に位置し、上流には聖橋と総武本線神田川橋梁、下流には万世橋が架かる。また、橋の北西側には「昌平橋西橋詰広場」が[1]、北東側には「昌平橋東橋詰広場」が[2]それぞれ設けられている。

昌平橋は現在の中山道のルートに含まれている架橋である[3]。かつて昌平橋の数十メートル下流に存在した中山道の「筋違橋」は、昌平橋や筋違橋の架け替え、橋の名称変更により廃止されたため、実質的に「昌平橋」が中山道の橋となっている。

2007年平成19年)3月28日に千代田区景観まちづくり重要物件に指定されている[4]

橋の概要

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歴史

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下流の万世橋より(2008年8月)
明治初期の昌平橋。写真左が南岸
解体中の元萬世橋(手前)と昌平橋(左奥)。1906年(明治39年)撮影

この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624年 - 1645年)と伝えられており、橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社(いもあらいいなりしゃ、現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)と称した。また『新板江戸大絵図』(寛文五枚図)[5]には「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図には「相生橋」とも記されている。1691年(元禄4年)に徳川綱吉孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで、同年2月2日(1691年3月1日)に「昌平橋」と命名された[6][7]

江戸時代には水害で度々流されており、1728年享保13年)8月30日夜から9月2、3日にかけての大洪水で昌平橋、和泉橋、柳原新し橋(現在の美倉橋)、柳橋が2日夕方に流失[8]、1749年(寛延2年)8月13日にも昌平橋、筋違橋(すじかいばし)など神田川の橋々が流失し[9]、その度に架設されている。また、明暦の大火の後、昌平橋から筋違御門にかけて「八ツ小路」「八辻ヶ原」と呼ばれる火除地が設けられたが、1846年弘化3年)1月の大火で昌平橋が焼け落ち、同年閏5月24日に新たに普請された[10]。また、木橋の自然寿命は平均20年とされ、定期的に架け替えが行われており、1817年文化14年)7月20日に改架されたほか[11]1857年安政4年)12月18日に架け替え修理されている[12]

明治維新後の1869年明治2年)、大学校の「昌平橋昌平坂復称申立」により[13]、同年7月27日1869年9月3日)付東京府布達で同年8月1日(1869年9月6日)を以って「相生橋」と改められたが[14][15]1873年(明治6年)9月23日の洪水により落橋した[注釈 1]。なお、相生橋(昌平橋)及び筋違橋を廃して、その中間に石橋を架橋する事が決定していたため[16]、流された橋は再架橋されなかった。

同年11月1日に旧相生橋(昌平橋)と旧筋違橋の間に、筋違橋門枡形石垣を解体して再使用した石造アーチ橋の「萬代橋」(よろづよばし、通称:眼鏡橋)が架設されたが[16][注釈 2]1878年(明治11年)3月、分限者(資産家)の高橋次郎左衛門により、萬代橋の更に下流(現在の万世橋付近)に鉄橋「昌平橋」が架設された[17][18]。通行料に文久銭1枚(15)を徴収したことから「文久橋」と呼ばれた昌平橋は、秋田産の土瀝青(天然アスファルト)を使用した日本初のアスファルト舗装が施された[19][20]

1888年(明治21年)の東京市区改正条例(明治21年勅令第62号)に基づき、翌1889年(明治22年)5月に東京市区改正計画が告示され、萬代橋(萬世橋)西の新架橋から始まる幅員15(約27.3m)の一等道路第二類の路線が計画された。1900年(明治33年)5月19日、旧相生橋付近に再架設された橋に、再び「昌平橋」と名付けて開橋式が実施され[21][注釈 3][注釈 4]、下流の萬代橋は「元萬世橋」(もとよろづよばし)、昌平橋は「新萬世橋」(しんよろづよばし)に改称された。再架設された昌平橋の工費は8559円30銭とされ[23]、長さ12間(約21.8m)、幅6間(約10.9m)の土橋で、神田淡路町二丁目と旅籠町の間に架せられた[24]

現在の昌平橋は1923年大正12年)4月に架け替えられたもので、神田川における最初の鉄筋コンクリート製アーチ橋である。竣工当時は人道橋(橋長78(約23.64m)・幅員62.8尺(約19m))と軌道橋(橋長同じ・幅員23尺(約6.97m)、東京市電専用橋)が独立した構造で、人道橋と軌道橋の間に鋼製アーチの水路橋(橋長70尺(約21.21m))が設けられていた。その5ヶ月後の同年9月1日に関東大震災に遭遇するが、目立つ被害はなかった。

その後、昌平橋に接続する道路が震災復興再開発事業に基づく幹線街路35号線とされ、昌平橋もその対象として復興局帝都復興院の後継組織)が改修を担当することとなった。幹線街路35号線は計画幅員が22.0mに定められたが、昌平橋人道橋の有効幅員60尺(18.18m)では街路構造令の規定を満たさなかった。そのため、復興局は人道橋の歩道部分を廃止して車道・軌道専用橋に改修すると共に、下流側(東側)に新たな人道専用橋を架設した(第一期工事:1928年昭和3年)12月竣工)。その後、上流側(西側)の旧軌道橋を人道専用橋に改修した(第二期工事:1930年(昭和5年)2月竣工)。なお、架設当時の高欄、照明灯は、第二次世界大戦中の鉄材供出で撤去され、親柱だけが残った状態だったが、1983年(昭和58年)の昌平橋整備工事により架設当時の姿に復元された。2012年平成24年)2月には長寿命化工事(アーチ補修)が竣工している。

また、昌平橋の左岸下流側には、神田川の分水路の一つ「お茶の水分水路」の吐口が設けられている。

鉄橋「昌平橋」

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1878年(明治11年)3月1日、第一大区十一小区神田柳町より第五大区四小区花房町(現在の万世橋付近[注釈 5])に開橋した橋梁である。太政官布告による、橋銭を徴収する「賃取橋」[25]として架設された[18]

1875年(明治8年)7月10日、第五大区四小区金澤町(現在の千代田区外神田三丁目)の高橋次郎左衛門が神田小柳町に自費で木橋を新架する旨を出願したが、同年11月12日、石橋での架築が許可され、1877年(明治10年)8月6日、石橋から鉄橋への変更が許可された。同年10月5日に着手し、翌1878年(明治11年)2月15日に落成、同2月26日の東京府布達丁第103號により「昌平橋」と命名された。

経費は1万1355円65銭で、開橋当日の1878年(明治11年)3月1日から1885年(明治18年)12月31日までの満7年10ヶ月間、橋銭の徴収が許可され、その後は東京府へ移管される事となっていた。橋銭は次の通り。但し、非常の節は請求出来ない事とされ、外国人も徴収対象だった[17]

通行区分 橋銭
一人立往来 1厘5毛
人力車一人乗1輌 3厘
人力車二人乗1輌 4厘
乗馬1(匹) 4厘
駕籠1挺 4厘
牛馬1疋 4厘
通行区分 橋銭
一疋附馬車1輌 1銭
二疋附馬車1輌 1銭5厘
大車1輌 7厘
中車1輌 5厘
小車1輌 3厘

また、実際の徴収額等は次の通り(金額単位:円)[26]

年度 揚高 修繕費 給料 雑費 年1割利子 元金へ入高
1878年(明治11年)3月 -
1879年(明治12年)2月迄
1593.006 1135.500 457.506
1879年(明治12年)3月 -
1879年(明治12年)12月迄
1422.364 74.754 120.916 45.000 889.624 292.070
1880年(明治13年)中 1743.570 130.240 235.000 89.000 1060.542 228.768
1881年(明治14年)度 1824.675 243.000 260.700 103.580 1037.665 179.730
1882年(明治15年)度 1825.160 84.508 253.530 101.830 1019.692 365.600
1883年(明治16年)度 1907.820 61.936 249.000 134.310 983.132 479.442
1884年(明治17年)度 1904.520 98.343 250.500 125.060 935.187 495.450
1885年(明治18年)1月 -
1885年(明治18年)4月30日迄
588.480 80.000 18.690 295.213 194.577
合計 12809.595 00692.781 01449.646 00617.470 07356.555 02693.143

1878年(明治11年)3月から1885年(明治18年)4月30日迄の満86ヶ月間の合計は、揚高(徴収額)12809円59銭5厘、 修繕費692円78銭1厘、給料1449円64銭6厘、雑費617円47銭、年1割利子7356円55銭5厘、差引元金の償却高2693円14銭3厘と大幅に債務が残った状態のため、高橋次郎左衛門の相続人・高橋惣三郎から提出された「橋銭収入年限延期願」について、特別な詮議を以って1887年(明治20年)7月まで徴収期間を延期したが、遂に負債は解消せず、「往来頻繁ナル市街中ニ其ノ如キ通行銭ヲ収ムル橋梁アルハ、衆人ノ不便ハ勿論、都府ノ體面ニ於テモ大ニ不可ナルカ如シ」と徴収期間の再延期願も却下され、同年8月1日より往来自由となった[27]

1900年(明治33年)5月19日、上流部に新たな「昌平橋」が架設されて、本橋は「新萬世橋」(しんよろづよばし)に改称したが、1903年(明治36年)3月8日、鋼製アーチ橋「萬世橋(万世橋)」に架け替えられている。

なお 『東京市史稿』市街篇第62「附記 昌平橋献納」[28]によると、高橋次郎左衛門は資本不足により権利一切を元東京府知事・由利公正に対して包括移転したとされ、昌平橋を架設したのは由利公正としているほか、1879年(明治12年)4月に昌平橋を東京府に献納したとされている[29]

沿革

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歌川広重 名所江戸百景「昌平橋聖堂神田川」
  • 1691年元禄4年)旧暦2月2日 - 昌平橋と命名される
  • 1869年明治2年)旧暦8月1日 - 東京府布達により相生橋と改称
  • 1873年(明治6年)9月23日 - 洪水により落橋
  • 1878年(明治11年)3月1日 - 現在の万世橋付近に鉄橋昌平橋が架設される(有料橋)
  • 1887年(明治20年)8月1日 - 鉄橋昌平橋が往来自由になる
  • 1900年(明治33年)5月19日 - 旧相生橋付近に昌平橋が再架設される。下流の昌平橋は新萬世橋に改称
  • 1922年大正11年)10月1日 - 軌道橋(東京市電専用橋)が架設される
  • 1923年大正12年)4月 - 鉄筋コンクリートアーチ橋に架け替え
  • 1928年昭和3年)12月8日 - 改修第一期工事竣工
  • 1930年(昭和5年)2月 - 改修第二期工事竣工
  • 1967年(昭和42年)12月10日 - 東京都電淡路町線(37系統)廃止
  • 1983年(昭和58年)3月 - 昌平橋整備工事により、照明灯、高欄が架設当時の形に復元される
  • 2012年平成24年)2月15日 - 長寿命化工事(アーチ補修)竣工

周辺

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1873年(明治6年)9月24日付『東京日日新聞』(第487號)では「昌平橋仮橋」を含む、神田川に架かる橋の殆どが流されたと記されている。
  2. ^ なお、架設当時から公文書等にも「萬世橋」の表記が見られる。
  3. ^ 『東京案内』上巻、515頁では「卅三年新架成り」、即ち1900年(明治33年)架設と記されている。
  4. ^ 千代田区教育委員会の「昌平橋」説明板では1899年(明治32年)再架と記されている[22]
  5. ^ 正確には現在の万世橋下流北橋詰広場から真南へ架橋されている(参謀本部陸軍部測量局『五千分一東京図測量原図』を参照)。

出典

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  1. ^ 昌平橋西橋詰広場”. 千代田区役所. 2024年3月14日閲覧。
  2. ^ 昌平橋東橋詰広場”. 千代田区役所. 2024年3月14日閲覧。
  3. ^ 「東京国道マップ」中山道”. 国土交通省関東地方整備局 東京国道事務所. 2024年3月14日閲覧。
  4. ^ 千代田区景観まちづくり重要物件 昌平橋”. 千代田区役所. 2024年3月14日閲覧。
  5. ^ 新板江戸大絵図』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 東京市史稿』 橋梁篇第1、東京市役所編纂、1936年(昭和11年)11月30日、375頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1915626/1/228 
  7. ^ 徳川実紀』 第4編(「常憲院殿御実紀」卷廿三)、経済雑誌社、1904年(明治37年)5月31日、366頁。doi:10.11501/1917856 
  8. ^ 増訂武江年表』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、90頁
  9. ^ 増訂武江年表』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、108頁
  10. ^ 東京市史稿』 市街篇第41、東京都編纂、1955年(昭和30年)3月30日、805頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9640903/1/443 
  11. ^ 東京市史稿』 市街篇第35、東京市役所編纂、1940年(昭和15年)3月10日、3頁https://dl.ndl.go.jp/pid/3450827/1/16 
  12. ^ 東京市史稿』 市街篇第45、東京都編纂、1957年(昭和32年)12月20日、72-73頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9640907/1/58 
  13. ^ 昌平橋昌平坂復称申立 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  14. ^ 東京府下昌平橋外一ヶ所改称 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  15. ^ 江戸坂見聞録/昌平坂、坂学会、2012年8月15日
  16. ^ a b 東京市史稿』 市街篇第55、東京都編纂、1964年(昭和39年)3月25日、586-598頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9640918/1/341『 
  17. ^ a b 『東京市史稿』市街篇第61、東京都編纂、1969年(昭和44年)10月31日、1-3頁
  18. ^ a b 6512 昌平橋長崎大学「日本古写真アルバム ボードインコレクション」
  19. ^ 佐々木榮一 2011, p. 12.
  20. ^ アスファルト舗装と秋田の意外な関係”. 国土交通省東北地方整備局 秋田河川国道事務所. 2004年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月14日閲覧。
  21. ^ 『新編千代田区史 年表・索引編』、101頁
  22. ^ 昌平橋”. Monumento (2016年5月8日). 2024年3月14日閲覧。
  23. ^ 『明治工業史 土木篇』、工学会、1929年(昭和4年)、1003頁
  24. ^ 『東京案内』上巻、515頁
  25. ^ 明治4年太政官布告第648号「治水修路架橋運輸ノ便ヲ與ス者ニ入費税金徴收ヲ許ス」
  26. ^ 『東京市史稿』市街篇第72、東京都編纂、1981年(昭和56年)2月28日、311-312頁
  27. ^ 『東京市史稿』市街篇第72、東京都編纂、1981年(昭和56年)2月28日、305-312頁
  28. ^ 元資料は『由利公正伝』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、452-455頁
  29. ^ 『東京市史稿』市街篇第62、東京都編纂、1970年(昭和45年)10月31日、358-359頁

参考資料

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関連項目

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外部リンク

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