コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

早川兼彜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
早川五郎兵衛から転送)
 
早川兼彜
時代 江戸時代後期
生誕 文化11年10月26日1814年12月7日
死没 明治11年(1878年11月3日
改名 亀太郎(初名) →兼彜
別名 九郎右衛門→五郎兵衛(通称)
→如水(隠居名)
戒名 早川如水
墓所 鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地
幕府 江戸幕府
主君 島津斉彬島津忠義
薩摩藩
氏族 早川氏
父母 父:兼典、母:婦美
兄弟 鶴次郎、雛、兼彜、兼諧
正室:登喜
側室:里
八千、兼知(養子)、貞、古登、仲、
多嘉(養女)[注釈 1]
以下、側室の子:辰彦、キタ、幾彦、
兼美
テンプレートを表示

早川 兼彜(はやかわ かねのり)(通称早川五郎兵衛[1] [2]は、江戸時代後期の薩摩藩士。島津斉彬の下で江戸御留守居役を務め。早川兼知(早川五郎)[3]、早川辰彦[4][注釈 2]の父にあたる。

生涯

[編集]

※月日は旧暦

  • 文化11年(1814年)10月26日、早川兼典(環)の二男として薩摩藩芝西向御屋鋪にて生まれる。
  • 文政2年(1819年)9月24日、祖父・兼備(安積)が大隅国始羅郡帖佐郷地頭を拝命。
  • 文政3年(1820年)8月15日、父、祖父、曾祖父「酔好(早川兼親)」と共に、江戸から国許へ。
  • 文政3年(1820年)10月2日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪[注釈 3]に着く。
  • 九郎右衛門 家格代々新番。
  • 天保11年(1840年)10月10日、九郎右衛門 御使番。
  • 父「鯉翁」を伴い、江戸屋鋪へ移る。
  • 天保15年(1844年)3月27日、五郎兵衛 家格代々小番。
  • 父「鯉翁」を伴い、鹿児島高見馬場拝領地へ移る。
  • 文久3年(1863年)7月2日、五郎兵衛 薩英戦争に従軍。
  • 隠居し、家督を早川兼知へ譲る。隠居名として『如水』と名乗る。
  • 明治11年(1878年)11月3日、鹿児島にて死去。享年65[注釈 4]

人物

[編集]

奉職歴

[編集]

※月日は旧暦

  • 文政6年(1823年)5月15日、亀太郎 御小姓。
  • 文政7年(1824年)9月15日、亀太郎 斉彬公御附御小姓。
  • 文政11年(1828年)11月14日、亀太郎 斉彬公奥御小姓。
  • 天保3年(1832年)11月5日、九郎右衛門 斉彬公御小納戸見習。
  • 天保4年(1833年)4月9日、九郎右衛門 御小納戸。
  • 九郎右衛門 江戸御留守居見習。
  • 九郎右衛門 御目附。
  • 天保11年(1840年)10月10日、九郎右衛門 御鉄砲奉行。
  • 天保15年(1844年)3月27日、五郎兵衛 江戸御留守居。
  • 五郎兵衛 御側御用人格。
  • 五郎兵衛 御趣法掛。
  • 五郎兵衛 御側御用人。
  • 五郎兵衛 御用人。
  • 文久3年(1863年)5月26日、五郎兵衛 阿久根一組大砲物主。


出典

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 三州岡崎藩士平岩??(江戸在勤の者)の娘。幼名:豊、天代。
  2. ^ 1877年(明治10年)4月22日熊本県御船にて戦死。享年15。1883年(明治16年)3月11日南洲墓地に改葬。
  3. ^ 場所は、『鹿児島御城下明細図:索引』塩満郁夫編によると、 No1602 早川安積 外堀の東、竪馬場の西、立野馬場の南と記載されている。(なお、フリガナに「ハヤカワアサカ」とあるが、正しくは、「ハヤカワアヅミ」である。)
  4. ^ 鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地内に墓石がある。墓碑銘『早川如水』。