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早川兼典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
早川兼典
時代 江戸時代後期
生誕 天明6年11月18日1787年1月7日
死没 慶應4年2月29日1868年3月22日
改名 辰次郎(幼名)→亀太郎(初名) →兼典
別名 九郎右衛門→環(たまき)(通称)
→鯉翁(隠居名)
戒名 南嶺院殿壽譽良還法師
墓所 鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地
幕府 江戸幕府
主君 島津重豪島津斉宣島津斉興島津斉彬島津忠義
薩摩藩
氏族 早川氏
父母 父:兼備、母:整
兄弟 兼典、新之助[注釈 1]、、澤野、
浦橋(島津斉宣側室)
異母兄弟:和十郎、兼富
正室:婦美
鶴次郎(長男)、雛(長女)、兼彜(二男)、
兼諧
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早川 兼典(はやかわ かねつね)[1]は、江戸時代後期の薩摩藩士。早川兼彜(早川五郎兵衛)[2] [3]の父にあたる。

生涯

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※月日は旧暦

  • 天明6年(1786年)11月18日、早川兼備(渡殿)の長男として薩摩藩大崎御屋鋪にて生まれる。
  • 文政2年(1819年)9月24日、父・兼備(安積)が大隅国始羅郡帖佐郷地頭を拝命。
  • 文政3年(1820年)8月15日、父、および、祖父酔好(兼親)と共に、江戸から国許へ。
  • 文政3年(1820年)10月2日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪[注釈 2]に着く。
  • 文政5年(1822年)4月5日、父・兼備(安積)が死去、37歳で家督を相続。
  • 一代御家老組(家格一代寄合)。
  • 隠居し、家督を兼彜へ譲る。隠居名として『鯉翁』と名乗る。
  • 兼彜と共に、江戸屋鋪へ移る。
  • 兼彜と共に、鹿児島高見馬場拝領地へ移る。
  • 慶應4年(1868年)2月29日、鹿児島高見馬場拝領屋鋪にて死去。享年83[注釈 3]

人物

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奉職歴

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※月日は旧暦

  • 時之丞様(島津重豪四男、後の有馬一純)公御附御小姓
  • 重豪公御附御小姓
  • 重豪公奥御小姓
  • 斉興公御附奥御小姓
  • 御小納戸見習
  • 御小納戸
  • 御小納戸頭取御小納戸勤
  • 御刀番
  • 江戸御留守居
  • 御側御用人
  • 御趣法掛
  • 御側役兼務
  • 御勘定奉行
  • 高輪御附御側役兼務

出典

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注釈

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  1. ^ 山田為種の養子山田為範、山田為正(山田壮右衛門)の父
  2. ^ 場所は、『鹿児島御城下明細図:索引』塩満郁夫編によると、 No1602 早川安積 外堀の東、竪馬場の西、立野馬場の南と記載されている。(なお、フリガナに「ハヤカワアサカ」とあるが、正しくは、「ハヤカワアヅミ」である。)
  3. ^ 鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地内に墓石がある。墓碑銘『南嶺院殿壽譽良還法師』。