日野政資
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日野 政資(ひの まさすけ)は、室町時代後期の公家。従一位左大臣日野勝光の子。
時代 | 室町時代 |
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生誕 | 文明元年(1469年) |
死没 | 明応4年(1495年) |
官位 | 正三位、権中納言 |
氏族 | 藤原北家真夏流日野家(裏松家) |
兄弟 | 資基、尊慶、政資、烏丸冬光、円深、祥雲院(足利義尚正室) |
子 | 養子:内光 |
生涯
[編集]文明元年、日野勝光の子として生まれる。 政資には、二人の兄がいた。長兄資基は文明2年9月、足利義政に自害を命じられるも、勝光の嘆願により助命され、翌年、勝光の意向で出家した。次兄尊慶は僧籍にあったが、早世している。 このような背景もあり、政資は文明7年(1475)にわずか7歳で元服、参内を遂げ、侍従に任じられた。さらに翌年には、父勝光が死去し、日野家の家督となった。幼くして日野家を継いだ政資を支えたのは叔母の日野富子であった。また、二条持通との猶子関係を通じた援助もあったとされる。
応仁元年(1467)以来、後花園上皇・後土御門天皇は戦乱を避けて室町殿へ避難していたが、文明8年(1476)の室町殿焼亡ののち行在所となっていた北小路邸が焼亡したため、政資邸が一時的に行在所となった。
文明18年の足利義尚の右大将拝賀では、家司に補任され、実務的な活動に従事した。また、この頃には蔵人頭に任じられており、朝廷内で着実に昇進を重ねていた。
長享元年(1487)に、義尚が六角氏征伐のため、近江に出陣した際には、政資も軍勢を率いてこれに同行している。