鈴木昶 (医療ジャーナリスト)
鈴木 昶(すずき あきら、1932年- )は、日本の医療ジャーナリストである。薬剤師、薬事日報編集局長、のち執筆家に転じた。
人物
[編集]山形県に生まれる。大学では当初文系だったが薬剤に転じて、卒業後は医療ジャーナリストの道を進んだ。医療新聞である薬事日報(創刊1943年[1])の編集局長などを務めた。医療ジャーナリストとして30年経過し「生きた証となるものを残したい」と思い立った後に、交流があった作家の吉村昭に勧められて日本医者家列伝を執筆する[2]。なお、吉村昭は司馬遼太郎に花神を執筆するきっかけを作った人物でもある。[要出典]執筆は史料がほとんど残っていないなど困難を極め、約20年という長期間をかけて2013年に日本医家列伝は完成した[2]。その他執筆は30冊を超える。
薬剤師から主に薬局向け専門新聞の記者・編集局長を務めた経歴から、薬関係の執筆が多く、特にそれまで研究がなされていなかった江戸時代の薬事関係・漢方などに詳しい。また、川柳を趣味にしている関係で、その関係本も数点執筆されており、江戸時代の川柳と薬の関係からの執筆も数点残されている。
日本医家列伝
[編集]後半生のライフワークとなった日本医家列伝は、2006年に亡くなった吉村昭が執筆した「日本医家伝」(1971年[3],再版2002年,掲載は12人)の遺志を引き継ぐものであり、奈良時代から現代の平成までの日本の医者・医療関係者ら100人を列記した列伝であり、業績著しいながらも歴史に埋もれ、忘れかけられていた医家を掘り起こした[4]。鈴木は「人が生きるところに病気があり、それを手当てし看取る人がいる。医師だけでなく、歯科医師、薬剤師、看護師、臨床検査技師、栄養士、鍼灸師、理学療法士など、多種類の医療従事者をオール・メディカル・スタッフと呼ぶ。それがわたしのいう「医家」だ。[5]」「そして各分野には、この道を拓いた先人がいた。わたしは心からの敬意をこめて、それらの先人の足跡を綴りたいのである。[5]」とし、また「力不足は承知している。だが類書がほとんどないだけに、この書を叩き台にしてさらに書き加えられることを念じてやまない。」ともあとがきに結んでいる[6]。
取り上げた医家は以下の通り。
著書
[編集]太字は代表作
- 十七文字に生きる庶民の本音―ひねり唄 健友館 1990年
- 江戸の妙薬 岩崎美術社 1991年
- くすり春秋暮らしの知恵を求めて ぎょうせい出版 1991年
- 昭和も遠く : 川柳で綴る庶民史 創思社出版 1991年[7]
- 続くすり春秋 ぎょうせい出版 1992年
- 路地裏の唄 1993年
- 生薬歳時記 メディカル・フォーラム社 1994年[8]
- 古川柳くすり箱 1994年
- 川柳 江戸八百八町 1995年
- 薬草歳時記 青蛙房 1995年
- 身近な漢方薬剤辞典 東京堂出版 1997年
- 伝承薬の事典―ガマの油から薬用酒まで 東京堂出版 1999年
- 江戸の医療風俗辞典 東京堂出版 2000年
- 昭和っ子―セピア色の想い出 2002年
- かるた「新・養生訓」薬いらずの老いじたく 青蛙房 2006年
- 日本の伝承薬江戸売薬から家庭薬まで 薬事日報社 2005年
- 花のくすり箱ー体に効く植物辞典 講談社 2005年
- 川柳くすり草紙 (薬事日報新書 (21)) 2005年
- 食べるくすりの事典―台所は家庭の薬箱 2005年
- 川柳くすり百景―薬日柳壇の半世紀から (薬事日報新書 25) 2006年
- 食べるくすりの事典 2011年
- 日本医家列伝 大修館書店 2013年
雑誌等掲載
[編集](他多数)
脚注
[編集]- ^ 薬事日報ウェブサイト会社案内
- ^ a b 日本医家列伝 p449
- ^ 日本医家伝国会図書館リサーチ
- ^ 日本医家列伝: 鑑真から多田富雄までgoogle書誌情報
- ^ a b 日本医家列伝 まえがき
- ^ 日本医家列伝 p451
- ^ 昭和も遠く : 川柳で綴る庶民史NII学術情報ナビゲータ
- ^ 漢方啓蒙叢書 生薬歳時記NII学術情報ナビゲータ
- ^ 月刊「漢方療法」たにぐち書店国立国会図書館リサーチ
- ^ 月刊「漢方療法」たにぐち書店国立国会図書館リサーチ