方策
方 策(ほう さく)は、中華圏の人名。中華民国において、同姓同名の2人の要人が存在する。
- 方策 (浙江) - 中華民国の軍人。本記事において詳述する。
- 方策 (貴州) - 中華民国の革命家・政治家(1887 - 1945)。貴州省の革命派団体である自治学社の幹部。民国成立後は孫文(孫中山)を支持した。
方策 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1886年(清光緒12年)[1] |
死去: |
1945年(民国34年)10月20日 中華民国陝西省西安市 |
出身地: | 清浙江省台州府黄岩県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 方策 |
簡体字: | 方策 |
拼音: | Fāng Cè |
ラテン字: | Fang Ts'o |
和名表記: | ほう さく |
発音転記: | ファン ツゥ |
方 策(ほう さく)は中華民国の軍人。浙江軍(浙軍)出身の軍人で、後に国民革命軍に加入した。字は定中。
事績
[編集]北京政府から国民革命軍へ
[編集]1909年(宣統元年)に江南陸師学堂第4期工兵科を卒業する。辛亥革命勃発後は浙江省革命派の支隊参軍官に任ぜられ、後に江浙聯軍総司令部工兵部長となる。中華民国成立後の1913年(民国2年)に黄興が南京で第二革命(二次革命)を起こすと、方策は司令部中校参謀を務めている。二次革命失敗後の翌1914年(民国3年)、方は浙江省に戻り浙軍第12旅参謀に任ぜられた。1916年(民国5年)、浙軍第7団中校団附となり、同年中に北京の陸軍大学第5期で学ぶ。1919年(民国8年)12月に卒業、浙軍に復帰し、1925年(民国14年)には第12団団長に昇進した。[2][3]
1926年(民国15年)、方策は国民革命軍に加入し、第26軍の団長に任ぜられて北伐に従軍した。翌1927年(民国16年)に第26軍第2師副師長に昇進し、同年8月には同師師長に就任、さらに11月には第26軍参謀長に移っている。1928年(民国17年)1月、第26軍副軍長も兼ね、まもなく軍長代理として第2期北伐に参戦した。その後、軍の再編が実施され、第26軍は第6師に縮小、それにより方は第6師副師長(師長代理)に転じた。その後は京滬衛戍司令も務め、1929年(民国18年)に第45師師長に昇進している。1930年(民国19年)12月、浙江省政府委員兼清郷督弁に任ぜられた。[2][3]
河南省での活動
[編集]1932年(民国21年)、方策は河南省に異動し、河南省第3区行政督察専員に任命された。1935年(民国24年)9月からは河南省政府委員に起用され、民政庁庁長を兼任している。同年12月、商震が河南省政府主席に任ぜられると、李培基が民政庁長に就任したため、方は省政府委員専任に移った。1938年(民国27年)2月、商の省政府主席退任(後任は程潜)に伴い李も河南省を離れたため、方は民政庁長に返り咲いている。[2][3]
同年9月に程潜が河南省政府主席を退くと、しばらく主席の地位は空白となったが、翌1939年(民国28年)2月に方策が省政府主席代理(民政庁長兼任)となった。9月、衛立煌が省政府主席となると、方は民政庁長として衛を支える。1942年(民国31年)1月に衛が退任して李培基が省政府主席となっても、方は引き続き同じ地位で李を補佐した。1944年(民国33年)7月、李が省政府主席を退任(後任は劉茂恩)すると、方も9年近く務めた民政庁長を辞任、軍事委員会中将参議に転じた。1945年(民国34年)、軍風紀巡視団主任委員に任命されている。日中戦争終結直後の同年10月20日、西安市にて病没。享年60。死後、陸軍中将位に加えて上将銜を追贈された。[4][3]
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
|
---|