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新見正勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
新見正勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治3年(1557年
死没 寛永19年12月20日1643年2月8日
改名 勘三郎(幼名)→正勝
別名 彦左衛門
戒名 祐巴
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光
氏族 新見氏
父母 父:新見正吉
兄弟 正勝正重義清
松井宗次
正盛正次義正
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新見 正勝(しんみ まさかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将旗本新見氏の祖[1]

略歴

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弘治3年(1557年)、三河国にて新見正吉の子として誕生。

天正2年(1574年)9月、父・正吉と共に遠江国に所在していた徳川家康に仕える。天正8年(1580年)5月、田中城攻めに参加し、軍功を上げる。天正9年(1581年)、一旦相模国鎌倉郡品濃村において過ごした後、天正12年(1584年)4月、小牧・長久手の戦いに従軍する。このとき勇戦して冑首三級を討取った。この戦いにおいて、家康は尾張国小幡城に凱陣し、正勝を呼び、弓・鉄砲各100挺を本多重次より受け取り、本多広孝の配下に加わり小幡城を守衛すべく命じ、小牧城へと戻った。このとき正勝は家康より無銘の腋刀を賜っている。戦後また品濃村に帰住した。

天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍した。家康の関東入国の後、品濃村及び前山田村に250石を采地として拝領した[1]。陣屋は品濃村にあり白旗神社(横浜市戸塚区品濃町)境内となっている[1]慶長19年(1614年)、大坂の陣に従軍し、御膳奉行を勤めた。このとき陣中にをいて家康より黒瀬戸の茶碗を賜る。

元和元年(1615年)11月、采地を加増され、元和3年(1617年)8月にも再度加増、相模国鎌倉郡、近江国蒲生郡滋賀郡において810石余りを知行し、その後大坂御金奉行となる。その後、幼少の江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の傍に勤仕し、秀忠親筆による「人丸」の二字を賜る。

寛永17年(1640年)2月25日、采地品濃村に隠遁し、寛永19年(1642年)12月20日、同地において死去。享年86。墓所は谷宿公園(横浜市戸塚区品濃町)近くにある[1]

子孫に正朝正路正興らがいる。

脚注

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  1. ^ a b c d 19世紀の日本と亜米利加 横須賀市自然・人文博物館 2023年10月23日閲覧。

出典

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