新見正勝
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 弘治3年(1557年) |
死没 | 寛永19年12月20日(1643年2月8日) |
改名 | 勘三郎(幼名)→正勝 |
別名 | 彦左衛門 |
戒名 | 祐巴 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
氏族 | 新見氏 |
父母 | 父:新見正吉 |
兄弟 | 正勝、正重、義清 |
妻 | 松井宗次娘 |
子 | 正盛、正次、義正 |
新見 正勝(しんみ まさかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。新見氏の祖[1]。
略歴
[編集]天正2年(1574年)9月、父・正吉と共に遠江国に所在していた徳川家康に仕える。天正8年(1580年)5月、田中城攻めに参加し、軍功を上げる。天正9年(1581年)、一旦相模国鎌倉郡品濃村において過ごした後、天正12年(1584年)4月、小牧・長久手の戦いに従軍する。このとき勇戦して冑首三級を討取った。この戦いにおいて、家康は尾張国小幡城に凱陣し、正勝を呼び、弓・鉄砲各100挺を本多重次より受け取り、本多広孝の配下に加わり小幡城を守衛すべく命じ、小牧城へと戻った。このとき正勝は家康より無銘の腋刀を賜っている。戦後また品濃村に帰住した。
天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍した。家康の関東入国の後、品濃村及び前山田村に250石を采地として拝領した[1]。陣屋は品濃村にあり白旗神社(横浜市戸塚区品濃町)境内となっている[1]。慶長19年(1614年)、大坂の陣に従軍し、御膳奉行を勤めた。このとき陣中にをいて家康より黒瀬戸の茶碗を賜る。
元和元年(1615年)11月、采地を加増され、元和3年(1617年)8月にも再度加増、相模国鎌倉郡、近江国蒲生郡、滋賀郡において810石余りを知行し、その後大坂御金奉行となる。その後、幼少の江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の傍に勤仕し、秀忠親筆による「人丸」の二字を賜る。
寛永17年(1640年)2月25日、采地品濃村に隠遁し、寛永19年(1642年)12月20日、同地において死去。享年86。墓所は谷宿公園(横浜市戸塚区品濃町)近くにある[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 19世紀の日本と亜米利加 横須賀市自然・人文博物館 2023年10月23日閲覧。
出典
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜 第三』(続群書類従完成会・1967年)
- 『干城録 第十四』(人間舎・2003年)