斎藤力三郎
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斎藤 力三郎(さいとう りきさぶろう、1861年10月8日(文久元年9月5日[1]) - 1915年(大正4年)5月26日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[1][2]。
経歴
[編集]千葉県出身[1][2]。1881年(明治14年)12月、陸軍士官学校(旧4期)を卒業し、歩兵少尉に任官[3]。1889年(明治22年)12月、陸軍大学校(5期)を卒業[4]。陸士勤務となる[4]。
1904年(明治37年)3月、韓国駐剳軍参謀長に就任[2]。同年9月、第11師団参謀長に転じ日露戦争に出征[1][2]。旅順攻囲戦、奉天会戦に参戦[1]。1905年(明治38年)3月、歩兵大佐に昇進[2]。1907年(明治40年)12月、歩兵第9連隊長に就任[2]。1909年(明治42年)1月、陸軍少将に進級し歩兵第25旅団長となる[1][2]。
1912年(明治45年)4月、歩兵第1旅団長に転じ[1][2]、1913年(大正2年)5月、教育総監部本部長に異動[1][2]。1914年(大正3年)5月、陸軍中将に進んだ[1][2]。同年11月、第一次世界大戦の青島の戦いに参戦後の第18師団長に親補されたが、1915年5月在任中に死去した[1][2]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1885年(明治18年)7月25日 - 従七位[5]
- 1892年(明治25年)3月28日 - 正七位[6]
- 1897年(明治30年)7月10日 - 従六位[7]
- 1902年(明治35年)10月20日 - 正六位[8]
- 1905年(明治38年)4月7日 - 従五位[9]
- 1909年(明治42年)4月20日 - 正五位[10]
- 1914年(大正3年)4月30日 - 従四位[11]
- 1915年(大正4年)5月26日 - 正四位[12]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[13]
- 1895年(明治28年)
- 1899年(明治32年)5月9日 - 勲五等瑞宝章[17]
- 1904年(明治37年)1月29日 - 勲四等瑞宝章[18]
- 1914年(大正3年)11月30日 - 勲二等瑞宝章[19]
- 1915年(大正4年)5月26日 - 大正三四年従軍記章[20]
- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』326頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』63頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』62-63頁。
- ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版、546頁。
- ^ 『官報』第677号「叙任」1885年10月1日。
- ^ 『官報』第2621号「叙任及辞令」1892年3月29日。
- ^ 『官報』第4207号「叙任及辞令」1897年7月12日。
- ^ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
- ^ 『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
- ^ 『官報』第7743号「叙任及辞令」1909年4月21日。
- ^ 『官報』第525号「叙任及辞令」1914年5月1日。
- ^ 『官報』第844号「叙任及辞令」1915年5月27日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1889年12月29日。
- ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
- ^ 『官報』第3694号「叙任及辞令」1895年10月21日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
- ^ 『官報』第6426号「叙任及辞令」1904年11月30日。
- ^ 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
- ^ 『官報』第1022号・付録「辞令」1915年12月27日。
- ^ 『官報』第6502号「叙任及辞令」1905年3月7日。
- ^ 『官報』第8360号「叙任及辞令」1911年5月8日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。