斎藤仁太郎
斎藤仁太郎 さいとう じんたろう さいとう にたろう | |
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生年月日 | 1865年4月12日 |
出生地 |
日本 陸奥国桃生郡赤井村 (現宮城県東松島市赤井) |
没年月日 | 1933年4月12日(68歳没) |
前職 | 広淵村外4ヵ村戸長役場筆生 |
所属政党 |
(憲政会→) 立憲民政党 |
選挙区 | 宮城県第7選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1924年5月 - 1928年1月21日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1904年5月 - 1905年1月 1911年9月 - 1915年9月 |
桃生郡会議員 | |
深谷村会議員 |
斎藤 仁太郎(齋藤、さいとう じんたろう[1] / にたろう[2]、1865年4月12日(慶応元年3月17日[3])- 1933年(昭和8年)4月22日[2][3][4])は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、宮城県桃生郡赤井村長。
経歴
[編集]陸奥国桃生郡赤井村[3][5](宮城県[2]桃生郡深谷村、赤井村[4][6]、矢本町[1]を経て現東松島市赤井)で、農業[7]・斎藤恒治の長男として生まれた[7]。漢籍を修めた[2][3][4]。農業を営む[2][3][7]。1881年(明治14年)赤井小学校教員となる[1][3]。
1884年(明治17年)広淵村外4ヵ村戸長役場筆生に就任[1][3]。深谷村会議員、桃生郡会議員、同参事会員を務めた[1][2][3][4][5]。日清戦争、日露戦争に従軍[2][3][5]。1907年(明治40年)赤井村収入役となり、助役を経て、1908年(明治41年)同村長に就任[1]。また、1904年(明治37年)5月、宮城県会議員に選出され[1][3]1905年(明治38年)1月まで在任し[3]、1911年(明治44年)9月、県会議員に再選され1915年(大正4年)9月まで在任[3]。その他、宮城県農会議員、宮城県山林会地方委員、広淵大溜池水利組合議員なども務め[2][3][4][5]、教育、農業の振興に尽力し[3]、公共事業・慈善事業に多額の寄付を行った[6]。
1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙(宮城県第7区、憲政会公認)で当選し[8]、その後、1930年(昭和5年)2月、第17回総選挙(宮城県第2区、立憲民政党公認)に立候補したが落選し[9]、衆議院議員に1期在任した[2][4]。
実業界では、仙北亜炭取締役、宮戸石材取締役社長、振興商事常務取締役などを務めた[1][2][3][5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 『宮城県百科事典』393頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』285頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『宮城県議会史 第2巻』付録213-214頁。
- ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』205頁。
- ^ a b c d e 『宮城県姓氏家系大辞典』345頁。
- ^ a b 『新代議士名鑑』106頁。
- ^ a b c 『人事興信録 第8版』サ81頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第15回』21頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第17回』287頁。
参考文献
[編集]- 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第17回』衆議院事務局、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 宮城県議会史編さん委員会編『宮城県議会史 第2巻』宮城県議会、1974年。
- 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 竹内理三ほか編『宮城県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典4、角川書店、1994年。