真寂法親王
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(斎世親王から転送)
真寂入道親王 (斉世親王) | |
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 仁和2年(886年) |
薨去 | 延長5年9月10日(927年10月13日) |
改名 | 斉世 → 真寂(法名) |
別名 | 法三宮、円成寺宮 |
官位 | 三品、上総太守 |
父母 | 父:宇多天皇、母:橘義子 |
兄弟 | 醍醐天皇、斉中親王、真寂入道親王(斉世親王)、敦慶親王、敦固親王、斉邦親王、均子内親王、柔子内親王、君子内親王、戴明親王、敦実親王、孚子内親王、成子内親王、依子内親王、行中親王、誨子内親王、季子内親王、雅明親王、行明親王、源順子、他 |
妻 | 菅原寧子、橘公廉女 |
子 | 源英明、源庶明 |
真寂入道親王(しんじゃく にゅうどうしんのう)は、宇多天皇の第三皇子。母は橘義子。出家前は斉世親王(ときよ しんのう)。官位は三品・上総太守。
経歴
[編集]光孝朝の仁和2年(886年)臣籍降下していた源定省の三男・源斉世として生まれる。仁和3年(887年)父・定省の践祚(宇多天皇)に伴い、斉世も皇族になった。寛平元年(889年)兄弟3人とともに親王宣下を受ける。
寛平8年(896年)大学寮において講書初めが行われ、昌泰元年(898年)元服した。その後、醍醐朝にて兵部卿・上総太守などを歴任した。しかし、延喜元年(901年)斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位させようとしたという嫌疑により、岳父の右大臣・菅原道真が大宰府に左遷されると、斉世親王は仁和寺に入って真寂と名乗った(昌泰の変)。
その後は欣求修行につとめ7回の灌頂を受けたという。のち円成寺に移った。延長5年(927年)9月10日薨去。享年42。
経歴
[編集]- 寛平元年(889年) 12月28日:親王宣下[1]
- 昌泰元年(898年) 11月:元服
- 時期不詳:上総太守
- 延喜元年(901年) 2月2日:出家(法名・真寂)、見上総太守無品[1]
- 延長5年(927年) 9月10日:薨去(入道上総太守)[1]
系図
[編集]54 仁明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
55 文徳天皇 | 58 光孝天皇 | 人康親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
56 清和天皇 | 惟喬親王 | 59 宇多天皇 | 藤原基経妻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
57 陽成天皇 | 貞純親王 | 真寂法親王 (斉世親王) | 敦実親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源清蔭 〔陽成源氏〕 | 源経基 〔清和源氏〕 | 源雅信 〔宇多源氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 宮崎康充編『国司補任 第三』続群書類従完成会、1990年