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斉姜 (晋文公夫人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

斉姜(齊姜、せいきょう、生没年不詳)は、文公重耳の夫人。の宗女。

生涯

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桓公の一族の娘として生まれた[1]紀元前655年献公の後妻である驪姫が太子申生を誣告して殺し[2]、公子重耳は晋を脱出して諸国を流浪した(驪姫の乱)。重耳が斉に赴くと、斉の桓公は重耳を厚遇し、斉姜を重耳にとつがせた。重耳は「民は安楽に生きるもの。誰をかそのほかを知らんや」[3]といって、斉に骨を埋めるつもりになっていた。重耳の従者の狐偃は重耳が斉に安住してしまうのを心配し、出立をうながすべく従者たちとの木の下で相談した。たまたま桑摘みの女がこれを聞きつけ、斉姜にこのことを告げ口した。斉姜は桑摘み女を殺して口封じし、重耳の出立をうながした。重耳がぐすぐずして動かないので、斉姜は狐偃と共謀し、重耳を酒に酔わせて送り出した。こののち重耳の一行はを経てに入り[4]紀元前636年に秦の穆公の支援を得て晋に入国した[5]。晋の人は懐公を殺して重耳を擁立した。これが晋の文公である。文公は斉姜を迎えて夫人とした[1]

脚注

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  1. ^ a b 列女伝』賢明伝「晋文斉姜」
  2. ^ 春秋左氏伝』僖公5年
  3. ^ 国語』晋語四
  4. ^ 『春秋左氏伝』僖公23年
  5. ^ 『春秋左氏伝』僖公24年