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文室波多麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
文室波多麻呂
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 不明
死没 大同5年2月14日810年3月22日
別名 八多麻呂、八太麻呂
官位 従四位下雅楽頭
主君 孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 文室真人
父母 父:文室大市
兄弟 長島王、高島波多麻呂真老
久賀麻呂八島
沢雄、真文
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文室 波多麻呂(ふんや の はたまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。名は八多麻呂八太麻呂とも記される。大納言文室大市(大市王)の子。官位従四位下雅楽頭

経歴

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天平勝宝4年(752年)父・大市王ら一族と共に文室真人姓を与えられて臣籍降下する。天平勝宝9歳(757年)三世王の蔭位により無位から従五位下に直叙され、天平宝字3年(759年右大舎人助に任ぜられる。

称徳朝から光仁朝にかけて20年以上に亘って叙位任官の記録がないことから、天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱といった政変に巻き込まれて失脚したか。

従五位上に昇叙された後、延暦2年(783年)雅楽頭に任ぜられて再び『六国史』上に名前が現れる。その後、延暦10年(791年弾正弼、延暦18年(799年)雅楽頭に任ぜられるなど、桓武朝では主に京官を歴任する。弾正弼在職時の延暦14年(795年)に旧都の長岡宮の守衛を命ぜられ[1]、延暦16年(797年)には宇治橋の造営を行っている[2]。また、延暦6年(787年正五位下に昇叙され、桓武朝末までに従四位下に至る。

長命を保ち、嵯峨朝初頭の大同5年(810年)2月14日卒去。最終官位散位従四位下。

官歴

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六国史』による。

系譜

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  • 父:文室大市[3]
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:文室沢雄[3]
    • 男子:文室真文[3]

脚注

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  1. ^ 『日本後紀』延暦14年5月14日条
  2. ^ 『日本後紀』延暦16年5月8日条
  3. ^ a b c 鈴木真年『百家系図稿』巻8,文室

参考文献

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  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年