清棲敦子
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(敦子女王から転送)
清棲 敦子 (敦子女王) | |
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1924年(大正13年)頃撮影 | |
続柄 | 伏見宮博恭王第2王女子 |
全名 | 清棲 敦子(きよす あつこ) |
身位 | 女王→(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下→(皇籍離脱) |
出生 |
1907年5月18日 日本・東京府東京市麹町区 (現:東京都千代田区紀尾井町)伏見若宮邸 |
死去 |
1936年3月24日(28歳没) |
埋葬 | 青山霊園 |
配偶者 | 清棲幸保 |
子女 |
清棲家隆 小笠原貞子 成瀬慶子 清棲家治 |
父親 | 伏見宮博恭王 |
母親 | 博恭王妃経子 |
清棲 敦子(きよす あつこ、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1936年〈昭和11年〉3月24日)は、日本の元皇族。伯爵清棲幸保夫人。伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子。旧名は、敦子女王(あつこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。
生涯
[編集]1907年(明治40年)5月18日午前10時30分、伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子(第5子)として誕生。15分後に生まれた知子女王(久邇宮朝融王妃)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である[1]。双生児であることは誕生当初から公表され[2]、2人は引き離されることなく、ともに養育された。1925年(大正14年)10月27日、清棲幸保伯爵に降嫁した[3]。幸保との間に、家隆、貞子、慶子、家治の4児を儲ける。
系譜
[編集]- 父:伏見宮博恭王
- 母:徳川経子(徳川慶喜9女)
- 兄弟:博義王 - 恭子女王 - 博忠王 - 博信王 - 敦子女王 - 知子女王 - 博英王
- 夫:清棲幸保(伯爵)
- 子:
- 長男:清棲家隆
- 長女:清棲貞子(子爵小笠原光泰夫人)
- 次女:清棲慶子(成瀬照正夫人)
- 次男:清棲家治
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連項目
[編集]- 三笠宮崇仁親王 - 双子説があったが、否定の根拠に知子・敦子女王姉妹の存在を挙げた(本人の項を参照)