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清棲敦子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
敦子女王から転送)
清棲 敦子
(敦子女王)
1924年(大正13年)頃撮影
続柄 伏見宮博恭王第2王女子

全名 清棲 敦子(きよす あつこ)
身位 女王→(皇籍離脱
敬称 殿下→(皇籍離脱)
出生 (1907-05-18) 1907年5月18日
日本の旗 日本東京府東京市麹町区
(現:東京都千代田区紀尾井町)伏見若宮邸
死去 (1936-03-24) 1936年3月24日(28歳没)
埋葬 青山霊園
配偶者 清棲幸保
子女 清棲家隆
小笠原貞子
成瀬慶子
清棲家治
父親 伏見宮博恭王
母親 博恭王妃経子
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清棲 敦子(きよす あつこ、1907年明治40年〉5月18日 - 1936年昭和11年〉3月24日)は、日本の元皇族。伯爵清棲幸保夫人。伏見宮博恭王同妃経子の第2王女子。旧名は、敦子女王(あつこじょおう)。皇籍離脱前の身位女王で、皇室典範における敬称殿下

生涯

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清棲伯爵一家(1934年頃撮影)

1907年明治40年)5月18日午前10時30分、伏見宮博恭王同妃経子の第2王女子(第5子)として誕生。15分後に生まれた知子女王久邇宮朝融王妃)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である[1]。双生児であることは誕生当初から公表され[2]、2人は引き離されることなく、ともに養育された。1925年大正14年)10月27日清棲幸保伯爵に降嫁した[3]。幸保との間に、家隆、貞子、慶子、家治の4児を儲ける。

系譜

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 1925年1月7日 朝日新聞「知子女王御帰京 お慶びの日も近づいて」 "姉宮敦子女王"との記述あり
  2. ^ 1907年5月25日 朝日新聞「伏見若宮王女子御命名」
  3. ^ 大正15年宮内省告示第24号(『官報』第7004号、大正14年10月28日)(NDLJP:2956404/4

関連項目

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  • 三笠宮崇仁親王 - 双子説があったが、否定の根拠に知子・敦子女王姉妹の存在を挙げた(本人の項を参照)