改暦弁
『改暦弁』(かいれきべん、改曆辧[1]、改曆辨[2])は、福澤諭吉が1873年(明治6年)に発行した書籍である。出版者は慶應義塾蔵版、出版地は東京。
概要
[編集]明治5年11月9日(1872年12月9日)、明治政府は、来る明治5年12月3日をもって明治6年1月1日(1873年1月1日)とする新たな暦(グレゴリオ暦をもとにした新暦)の施行を定める太政官布告「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号)を公布した。
旧暦から新暦に改まるに際し、政府は一片の法令を出しただけで、この大改革の理由を国民に納得せしめるの注意を怠っているのを見て、思想家であり教育者である福澤諭吉は傍より歯がゆく思い、風邪臥床中、床の上でおよそ6時間ばかりで改暦を易しく解説する『改暦弁』を脱稿した[3]。これを出版したところ、おびただしい発行部数を示し、著者自身も驚いたとの次第が記してある[3]。また、浜松県令・林厚徳のように、同書を500部取り寄せ、県下各村へ配布する者もあった[1]。『福澤全集緒言』の「改暦弁」の項には以下のように記してある:
明治五年十一月九日改暦の発令あり。その時の公文、左の
如 し。今般改暦之儀、別紙の
通 被仰出候 、条此旨 相達 候事
(別紙詔書)
朕 惟 うに我邦通行の暦たる太陰の朔望 を以 て月を立て太陽の躔度 に合す。故に二、三年間必ず閏月を置かざるを得ず。置閏 の前後時に季候の早晩あり、終 に推歩の差を生ずるに至る。殊 に中下段に掲ぐる所の如 きは率 ね妄誕無稽 に属し人知の開達を防 ぐるもの少しとせず。蓋 し太陽暦は太陽の躔度に従 て月を立つ。日子多少の異ありと雖 も、季候早晩の変なく、四歳毎 に一日の閏を置き七千年の後、僅 に一日の差を生ずるに過ぎず。之 を太陰暦に比すれば最も精密にして、その便不便も固 より論を俟 たざるなり。依 て自今旧暦を廃し太陽暦を用い、天下永世之 を遵行 せしめん。百官有司 其 れ斯旨 を体 せよ
明治五年壬申 十一月九日一 今般太陰暦を廃し太陽暦御頒行 相成候 に付 、来る十二月三日を以 て明治六年一月一日と被定 候事但 新暦鏤版 出来次第頒布 候事一 一箇年三百六十五日十二月に分 ち、四年毎 に一日の閏 を置 候 事一 時刻の儀、是迄 昼夜長短に随 い十二時に相分 ち候処 、今後改て時辰儀 時刻、昼夜平分 二十四時に定め、子刻 より午刻 迄を十二時に分ち午前幾時と称し、午刻より子刻迄を十二時に分ち午後幾時と称 候事一 時鐘の儀、来る一月一日より右時刻に可改 事但 是迄 時辰儀時刻を何字と唱来 候処、以後何時と可称 事一 諸祭典等、旧暦月日〔を〕新暦月日に相当し施行可致 事太陽暦 一年三百六十五日、閏年 三百六十六日(四年毎に置之)一月大 三十一日 其一日即 旧暦壬申 十二月三日二月小 二十八日(閏年二十九日)其一日 同癸酉 正月四日(三月以下略す)(別に時刻表あり。二時は丑 の刻とか四時は寅 の刻とか記したるものなり)。以上の公文を見れば古来の大〔太〕陰暦を廃し太陽暦に改むることにして
甚 だ妙なり。吾々 の本願は唯 旧を棄 てゝ新に就 かんとするの一事のみなれば、何は扨 置き先 ず大賛成を表したりと雖 も、抑 も一国の暦日を変するが如 きは無上の大事件にして、之 を断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の相異 なる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より合点 せしむこそ大切なれ。欧羅巴 の耶蘇 教陽暦国にて、露国の暦は他に異 なること僅 かに十二日なれども、古来の慣行にて今日尚 お之 を改むるを得ず。然 るに日本に於 ては陰陽暦を一時に変化して凡 そ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単至極 にしてその詳 なるを知るに由 なし、畢竟 官辺 にその注意なくして且 つは筆執 る人の乏しきが為 めなりと推察せざるを得ず。左 れば民間の私に之を説明して余処 ながら新政府の盛事 を助けんものをと思付 き、怱々 書綴 りたるは改暦弁なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯され床の上にて筆を執 り、朝より午後に至るまで凡 そ六時間にて脱稿したり。固 より木葉 同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、扨 これを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を書林 に渡しさえすれば直 に売れ行くその有様 は之を見ても面白し。一冊何銭とて高 の知れたる定価なれども、塵 も積れば山と為 るの諺 に洩 れず、発売後二、三箇月にして何かの序 に改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余に上 りたることあり。その時、著者は独 り心に笑い、この書を綴りたるは僅 に六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身に斯 る利益を収領 しても宜 しかるべきやと、恰 も半信半疑に自 から感じたるは、旧藩士族根性の然 らしむる所にして今尚 お之 を記憶す。二、三箇月の後も売捌 は依然として止 まず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。畢竟 余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みて余 あるには非 ざれども、大勢の家族と共に心配なく生活して静 に老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。[3]
内容
[編集]『改暦弁』の項目立ては以下の通り。
緒言
[編集]此度大陰暦を止て大陽暦となし、明治五年十二月三日を明治六年一月一日と定めたるは一年俄に二十七日の相違にて世間にこれを怪む者も多からんと思ひ、西洋の書を調て彼の国に行はるゝ大陽暦と、古来支那、日本等に用大陰暦 との相違を示すこと左の如し。 — 福澤諭吉、『改暦弁』
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福澤諭吉『福翁自伝 福澤全集緒言』慶應義塾大学出版会〈福澤諭吉著作集 第12巻〉、2003年11月17日。ISBN 978-4-7664-0888-1。