捨て奸
捨て奸(すてがまり)は、戦国時代に薩摩国の大名島津氏により用いられたと言われる戦術の一つ。関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたとされることで知られている。「座禅陣」とも言われる。
概要
[編集]本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊がその場に留まり、追ってくる敵軍と死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。
関ヶ原の戦いにおける捨て奸
[編集]関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊して、周りが徳川家康方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300人程に減っていた兵数で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から離脱を図った。「捨て奸」は敵に視認しづらくするのと、鉄砲射撃時の命中率向上の為に、退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が重傷を負い、忠勝が落馬。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。島津義弘らは養老山地を抜けて堺に至り、海路を経て薩摩へ帰りつくことができた[1]。
高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは義弘を始めとした80余名であった[要出典]。この島津の退き口で行われた捨て奸は、義弘や家老達に指名された者より志願者の方が多かったという。
妙円寺詣りと関ケ原戦跡踏破隊
[編集]鹿児島県では「退き口」を偲ぶ妙円寺詣りという行事がある。その世話役であった窪田廣治が1960年、鹿児島の子供が島津隊の脱出路を歩く「関ケ原戦跡踏破隊」を始め、21世紀に至った。薩摩藩が工事を担った宝暦治水の恩返しとして、岐阜県海津市の住民が案内役を務めている[1]。
脚注
[編集]- ^ a b 【みちものがたり】関ケ原戦跡踏破隊の道(岐阜、三重、滋賀県)島津義弘しのび「チェスト」鹿児島の子2日間歩き通す『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2019年8月24日(6-7面)2020年12月31日閲覧