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戸田忠道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戸田 忠道(とだ ただみち、1813年8月28日文化10年8月3日〉 - 1891年明治24年〉2月)は、江戸時代後期の旗本

幼名は健次郎八郎左衛門鶏斎

安政3年(1856年)に師匠の窪田清音が頭取を務める講武所の剣術教授方、万延元年(1860年)に講武所剣術師範役、文久元年(1861年)講武所奉行に就任した。

生涯

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三河国渥美郡高塚村(現・愛知県豊橋市高塚町)・西七根村(豊橋市西七根町)の領主旗本戸田忠養の2男として江戸番町で生まれる。

窪田清音の門人として田宮流剣術居合術を、清音の父・窪田助左衛門勝英より関口流柔術を習得して皆傳、師範となる。 他に永井流鉾術の武術免許を持つ[1]

天保15年(1844年)に兄・忠真の養嗣子として,戸田家の家督を継ぐ。弘化3年(1846年)外国船が渥美半島沖に出没する報告に接し、吉田藩と田原藩が海岸防備に出陣した例に習い、嘉永2年(1849年)に領地である高塚村、西七根村を測量させて海辺絵図を作成して幕府に提出した[2]嘉永4年(1851年)窪田清音に指導を受けていた源清麿に二尺五分の豪快な長巻を製作してもらっている[3]

和宮親子内親王が将軍徳川家茂への降嫁が決まると、京から中山道を通り江戸までの警固の任にあたった。この時、 和宮様がお越しになる際に「ウスイ」では縁起が悪いと、碓氷峠を「相生峠」としたという[4]。 家茂の信頼が高く、布衣を仰せつかり奥向師範役を命じられ、万延2年(1861年)家茂の上洛にも同行して徒頭役、御納戸頭に栄進して家茂に近習した[5]

慶應元年(1865年)に家督を弟・戸田忠昭(講武所剣術教授役)に譲って隠居した。明治7年(1874年)に封禄600石を奉還後、知行所の高塚村に移り、野依村と高塚村の入会地である原野三町五歩(約3.5ha)を譲り受け、頼母子講などの手段で開墾をはじめ、明治23年(1890年)に開墾を遂行した[6]

脚注

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  1. ^ 榎本鐘司『幕末剣術の変質過程に関する研究 戸田家史料にみられる幕末の武芸者像について』,武道学研究,1980
  2. ^ 郷土豊橋を築いた先覚者たち編集委員会 編『郷土豊橋を築いた先覚者たち』,P26~27「戸田忠道」,豊橋市教育委員会,1986.8. 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ 斎藤鈴子 著『刀工源清麿』,P342,徳間書店,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 愛知県渥美郡 編『渥美郡史』正編,P602,愛知県渥美郡,大正12 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ 愛知県渥美郡編『渥美郡史』正編,P602,愛知県渥美郡,大正12年. 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 郷土豊橋を築いた先覚者たち編集委員会 編『郷土豊橋を築いた先覚者たち』,P26~27「戸田忠道」,豊橋市教育委員会,1986.8. 国立国会図書館デジタルコレクション