戸川達索
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戸川 達索(とがわ みちのり、元禄12年(1699年) - 寛延元年11月13日(1749年1月1日)[1])は、江戸時代の旗本(交代寄合)・知行5000石。官位は従五位下、土佐守。正室は横山忠知の娘。子に達恒、娘に交代寄合本堂家の本堂豊親[2]室、三好倚長[3]室、堀利正室、加藤正修室、宮原義潔室。
経歴
[編集]備中撫川の交代寄合・達富の長男として生まれた。母は本堂玄親の娘。
享保17年(1732年)、享保の飢饉により自身の知行領内も被害が出たため、領民救済策として年貢率を4割5分(2471石)から2割3分7厘(1189石)に減免しつつ、幕府に請いて1000両の拝借金を嘆願した。また領内の有力者である大賀喜右衛門にも金策の相談をするなど、手立てを尽くした。
延享4年(1747年)5月15日、大番頭に就任し、同年12月19日に従五位下・土佐守に叙任された。
寛延元年(1748年)、大番頭として大坂在番(大坂城の警備)中に急逝した。跡目は長男の達恒が継いだ。
脚注
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