戸川達富
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛文6年(1672年) |
死没 | 享保14年10月29日(1729年12月19日)[1] |
改名 | 槌千代(幼名)、正滋(初名) |
別名 | 主計、玄蕃、逵富 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 備中撫川領主 |
氏族 | 戸川氏 |
父母 | 戸川安宣 |
兄弟 | 安風、達富、松平政舎室 |
妻 | 本堂玄親[2]の娘 |
子 |
達索、源太郎、正方[3]、本堂苗親[4]、 達作[5]、伊織、作十郎、万之助、粂之助、 八木補頼[6]室、三好長栄[7]室、宇津教保[8]室、皆川庸春[9]室、 早島戸川安聡婚約者、木下紀林[10]室、市橋長能[11]室、その多に数女あり。 |
戸川 達富(とがわ みちとみ)は、江戸時代の旗本(交代寄合)・知行5000石。通称は主計、のち玄蕃。室は交代寄合本堂氏の本堂玄親の娘。長男の達索の他の子として、玄親の子の伊親の養嗣子本堂苗親がいる。
経歴
[編集]延宝3年(1675年)3月23日に4代藩主で兄の安風より1000石を分知され、旗本となった。ただしこの時は双方とも幼年であり、兄弟の意思ではない。
延宝7年(1679年)に兄の安風が9歳で死去したことにより、大名戸川家は無嗣改易となった。しかし幕府により達安をして戸川家の名跡存続が許され、4千石を加増されて5千石の大身旗本・交代寄合として戸川宗家の名跡を相続した。所領の撫川に撫川陣屋を設けた。
天和3年(1683年)10月、幕府により庭瀬の一郡を召し上げられ、替地として小田郡の宇戸谷村・上高末村ならびに川上郡の二ヶ(仁賀)村・佐屋村・九名村・大津寄村・高山村を与えられた。
曽祖父の達安の時代から、戸川家の江戸屋敷は溜池を上屋敷・麻布を下屋敷と定められていたが、元禄10年(1697年)に幕府からの屋敷替えの命により溜池の屋敷が召し上げとなった。代替として、四谷内藤宿に屋敷を与えられた。これにより、麻布を上屋敷、四谷内藤宿を下屋敷とした。
宝永5年(1708年)1月11日、定火消となり、正徳5年(1715年)3月11日に職を辞した[1]。
享保14年(1729年)、江戸にて病没。跡目は長男の達索が継いだ。
脚注
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