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戸川達富

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戸川逵冨から転送)
 
戸川達富
時代 江戸時代前期
生誕 寛文6年(1672年
死没 享保14年10月29日1729年12月19日[1]
改名 槌千代(幼名)、正滋(初名)
別名 主計、玄蕃、逵富
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
備中撫川領主
氏族 戸川氏
父母 戸川安宣
兄弟 安風達富松平政舎
本堂玄親[2]の娘
達索、源太郎、正方[3]本堂苗親[4]
達作[5]、伊織、作十郎、万之助、粂之助、
八木補頼[6]室、三好長栄[7]室、宇津教保[8]室、皆川庸春[9]室、
早島戸川安聡婚約者、木下紀林[10]室、市橋長能[11]室、その多に数女あり。
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戸川 達富(とがわ みちとみ)は、江戸時代旗本交代寄合)・知行5000石。通称は主計、のち玄蕃。室は交代寄合本堂氏本堂玄親の娘。長男の達索の他の子として、玄親の子の伊親の養嗣子本堂苗親がいる。

経歴

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備中庭瀬藩の第3代藩主・安宣の次男として生まれた。

延宝3年(1675年)3月23日に4代藩主で兄の安風より1000石を分知され、旗本となった。ただしこの時は双方とも幼年であり、兄弟の意思ではない。

延宝7年(1679年)に兄の安風が9歳で死去したことにより、大名戸川家は無嗣改易となった。しかし幕府により達安をして戸川家の名跡存続が許され、4千石を加増されて5千石の大身旗本・交代寄合として戸川宗家の名跡を相続した。所領の撫川に撫川陣屋を設けた。

天和3年(1683年)10月、幕府により庭瀬の一郡を召し上げられ、替地として小田郡の宇戸谷村・上高末村ならびに川上郡の二ヶ(仁賀)村・佐屋村・九名村・大津寄村・高山村を与えられた。

曽祖父の達安の時代から、戸川家の江戸屋敷溜池上屋敷麻布下屋敷と定められていたが、元禄10年(1697年)に幕府からの屋敷替えの命により溜池の屋敷が召し上げとなった。代替として、四谷内藤宿に屋敷を与えられた。これにより、麻布を上屋敷、四谷内藤宿を下屋敷とした。

宝永5年(1708年)1月11日、定火消となり、正徳5年(1715年)3月11日に職を辞した[1]

享保14年(1729年)、江戸にて病没。跡目は長男の達索が継いだ。

脚注

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  1. ^ a b 寛政重修諸家譜』巻第九百七十三
  2. ^ 交代寄合本堂氏
  3. ^ 妹尾戸川安成の養子
  4. ^ 室の兄弟で交代寄合本堂氏伊親の養子
  5. ^ 帯江戸川安村の養子のち家に戻る
  6. ^ 大身旗本
  7. ^ 旗本で三好為三の子孫家
  8. ^ 大久保忠増の八男。大久保氏先祖の宇津の姓を名乗り、分知を受けて旗本6千石。
  9. ^ 皆川氏分家。旗本
  10. ^ 備中国足守藩世子木下利安の子
  11. ^ 旗本2千石。市橋長政の娘婿の分家。
先代
戸川安風
戸川宗家当主
6代:1679年 - 1729年
次代
戸川達索
先代
撫川戸川家当主
初代:1679年 - 1729年
次代
戸川達索