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成田安輝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なりた あんき

成田 安輝
生誕 文久4年1月2日[1][2][注 1]
1864年2月9日
江戸幕府
薩摩国[2][注 2]
死没 (1915-07-07) 1915年7月7日(51歳没)[1][2]
奉天市[1][2][6]
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
民族 大和民族
出身校 陸軍幼年学校
陸軍士官学校(中退)
職業 金鉱会社勤務(1888年 - 1889年
鉄道保線事業(1894年 - 1895年
台湾総督府技師(1897年 - 1898年
探検家諜報員
金鉱経営(1907年 - )
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成田 安輝(なりた あんき[注 3]1864年2月9日文久4年1月2日〉 - 1915年7月7日)は外務省諜報員として日本の情報活動に従事し、1901年に日本人として2番目にラサ入りを果たした人物である。チベット関係者の間ではあまり著名ではなく、チベット旅行自体が疑問視されていたが[7]木村肥佐生によって人物像やチベット行が明らかにされた[8]

経歴

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文久4年(1864年)に鹿児島藩医の成田安秩の長男として生まれ、陸軍幼年学校(第一期生)・陸軍士官学校で学ぶが中途退学[2][7]小笠原で製塩業、アラスカで金鉱会社勤務、ユニオン・パシフィック鉄道の保線工事、台湾総督府技師などを歴任したのち、外務省の内命でチベット入り、その後は日露戦争特別任務、吉林省で鉱山調査、安東省で石油販売代理店、朝鮮で金山採掘などを行って過ごすが、1915年奉天市で病没[6]

チベット潜入

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国際経験が豊富であった成田は、外務省の内命[注 4]を受けてチベット潜入を試みた[9]

当初、5年がかりの計画を予定しており、その前に1898年から語学を学ぶ目的で1年間重慶に滞在し[10]、その後にダルツェンドで能海寛寺本婉雅と合流し、チベットへ向かう予定であった[11]。しかし、四川ルート(ダルツェンドから)でのチベット入りが困難であるとしてチベット入りを断念した。1900年には本来は機密の任務であったはずの成田のチベット行が公然のものになっていたことから外務省から帰国命令が出される[12]。その後、帰国命令は撤回されたものの、1901年に四川ルートでのチベット入りは不可能と判断し、9月に上海から汽船でカルカッタに移動し[13]インドルート(シッキム経由)でのチベット入りに切り替え[12]カルカッタからダージリン、シッキムを経由し、ギャンツェよりラサに入った[14][注 5]12月8日にラサ入りを果たすが、「支那人」として通していた成田に外国人ではないかとの嫌疑がかかった[15]ため、12月25日にラサを去り[16]1902年4月には上海に帰還している[13]

チベット潜入にあたっては莫大な機密費が使われている一方で、「成果」の寡少さから評価するむきは少ない[17]

モンゴル潜入

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日露戦争では特別任務をおびてゴビ砂漠を越え、モンゴルに潜入した[1][2]

家族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 木村肥佐生が『対支回顧録』を引用した内容では、文久4年ではなく改元後の元治元年になっている[3]
  2. ^ 木村肥佐生が「進蔵日誌(上)」の略歴[4]を引用した部分では、東京(当時は江戸)に生まれた後、明治9年(1876年)に父親の故郷である鹿児島県に帰ったとなっている[5]
  3. ^ CiNiiでは、木村の論文のタイトルの別名がヤステル (Yasuteru) となっている。
  4. ^ 小村寿太郎が「西蔵探検行」を賛成し、大隈重信西徳二郎樺山資紀らが計画を進める。
  5. ^ 日本人としてラサに入ったのは河口慧海に次いで2人目である[1][2]

出典

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  1. ^ a b c d e 成田安輝」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%88%90%E7%94%B0%E5%AE%89%E8%BC%9Dコトバンクより2022年6月11日閲覧 
  2. ^ a b c d e f g h 成田 安輝」『20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E6%88%90%E7%94%B0%20%E5%AE%89%E8%BC%9Dコトバンクより2022年6月11日閲覧 
  3. ^ 木村 (1981), pp. 35, 38.
  4. ^ 成田 & 松方 (1970), pp. 55–56.
  5. ^ 木村 (1981), p. 38.
  6. ^ a b 木村 (1981), p. 36.
  7. ^ a b c 木村 (1981), pp. 35–36.
  8. ^ 江本 (1993), p. 190.
  9. ^ 江本 (1993), p. 198.
  10. ^ 江本 (1993), p. 196.
  11. ^ 江本 (1993), p. 183.
  12. ^ a b 江本 (1993), pp. 199–200.
  13. ^ a b c 木村 (1981), p. 40.
  14. ^ 日本地学史編纂委員会 & 東京地学協会 (1996), p. 226.
  15. ^ 江本 (1993), p. 281.
  16. ^ 江本 (1993), p. 288.
  17. ^ 江本 (1993), p. 290.
  18. ^ a b 成田 & 松方 (1970), p. 56.
  19. ^ 木村 (1981), p. 41.

参考文献

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関連項目

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