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チベットにおける宗教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中国、チベット自治区の宗教人口(2012年現在)[1]

  チベット仏教 (78.5%)
  ボン教 (12.5%)
  中国の宗教 ほか (8.58%)
  キリスト教 (0.02%)
弥勒菩薩像、シガツェ市タシルンポ寺

この項では、チベットの宗教(チベットのしゅうきょう)について、チベット自治区におけるものを中心に解説する。

8世紀のチベットへの伝来以降、主たる宗教は仏教である。歴史的なチベット(チベット族が居住するエリア、チベット三州)は、現在の中華人民共和国チベット自治区と、青海省四川省の一部を含む地域である。仏教の伝来以前のチベットでは、ボン教という、シャーマニズム・アニミズム宗教が主流であった。ボン教は、現代でこそチベットにおいて少数派となったが、チベット仏教の成立に大きな影響を残すこととなった。

2012年版の「信仰の自由に関する国際報告書[注釈 1]」による推定に拠れば、チベット人の大多数(チベット自治区の人口のうち91%)はチベット仏教を信仰している。一方、40万人(同自治区の12.5%)が、中国の宗教と同様に孔子[注釈 2] を(中国における方法とは異なるとは言え)何らかの形で崇拝する、ボン教やチベットの民俗宗教を信仰している[3][4]。一部報道によれば、中国政府はボン教を儒教と結びつけて宣伝しているという[5]

チベット自治区内にはモスクが4堂存在し、4000人から5000人ほどのムスリムがいる[1]。しかし、中国政府は2010年に行った調査において、同自治区の人口に占めるムスリムの割合を0.4%と[2]、これよりも多く見積もった見解を示している。また、伝統的なキリスト教コミュニティが存在する、チベット自治区東部、マルカム県には塩井天主堂英語版中国語版があり、560名ほどの教区民が存在する[1]

チベット自治区における宗教及び信教の自由は、法律で規制されており、中国共産党の監視下に置かれている。

主要な宗教

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チベット仏教

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チベット随一の伽藍、トゥルナン寺・ジョカンの眺め
ガンデン寺内部
釈迦像に備えられたヤクバターろうそく。アシュタマンガラなどが施されたこれらのろうそくは、ヤクバターで作られたものとしては随一の出来であろう。ギャンツェ県、バイジュ僧院

宗教は、チベット民族にとって非常に大事なものであり、人生のあらゆる側面において影響を及ぼしている[要出典]。チベットでは、ボン教が古代から伝えられてきた。だが、現在では、シャーンタラクシタ以下、北インドの僧によって伝えられたサンスクリット仏典を継ぐ、大乗仏教密教の要素を持つチベット仏教が、同地域に大きな影響力を及ぼしている[6]。チベット仏教は、チベットやモンゴルだけでなく、北インドの一部やブリヤート共和国トゥヴァ共和国カルムイク共和国、中国の他の地域でも信仰されている。文化大革命の際には、チベットのほぼ全ての僧院が、紅衛兵による略奪・破壊にあった[7][8]。1980年代以降、(共産党政府による、限られた支援のもとで)いくつかの僧院では再建が始められた。また、限定的ではあるものの、信仰の自由が以前と比べて認められるようになった。さらに、政府によって僧侶の数に制限が課されてはいるものの、チベット各地の僧院に僧侶が復帰し、僧侶の養成が再開された[9][10]1950年代以前のチベットでは、男性人口の10%から20%が僧侶であった[11]。なお、チベット仏教が盛んであった時代には、密教の修行を許されたのは僧侶の中でも一握りに留まり、大多数の僧侶・僧院では顕教が一般的であった[12]

チベット仏教においては、主に四つの宗派が存在する(接尾辞paは日本語で「~(の)人」に相当する)。

ボン教

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ボン教寺、キュンポリ・ツェドゥク僧院(琼布孜珠寺)チベット自治区

チベットに土着的で、アニミズム的・シャーマニズム的な信仰体系であるボン教(bon chos)は、自然崇拝を拠りどころとし、成立は仏教伝来以前に遡るとされている[17]。ボン教は当初仏教に対立・対抗したが、現在ではダライ・ラマ14世によって正当な宗教であると認められている。

ボン教の経典によれば、『ドドゥー』[注釈 5]、『セルミク』[注釈 6]、『シジー』[注釈 7]の三つの聖典[注釈 8]トンパ・シェンラプ・ミボチェ英語版の神話を伝えているとされる[18]。「ボンポ」(チベット語: bon po)とも呼ばれるボン教徒たちの見解によれば、埋蔵経典[注釈 9]である『ドドゥー』と『セルミク』は11世紀頃に再発見され、『シジー』は口伝[注釈 10]で伝えられていたものを、14世紀のロデン・ニンポによって口述筆記された。ロデン・ニンポにより著された聖典『シジー』はこれら三つのなかで最も長大で、シェンラプの生涯だけでなく他のテーマについても扱う、叙事詩とも言うべき内容である[18]。ロデン・ニンポはボン教初のテルトン英語版[注釈 11]ではなかったが、最後に成立した『シジー』こそがボン教におけるもっとも重要なテクストとなった。『シジー』によれば、シェンラブは、キャンパ・ラリン[注釈 12]という悪魔に盗まれた馬を探す途上にボン教を成立させたという。また、伝承によれば、シェンラプは閻浮提のタジク・オルモルンリン(世界軸、後代の解釈ではペルシアとされる[19])で生まれた。伝統的な解釈によれば、タジク・オルモルンリンは、西部チベットにそびえるカイラス山のことと考えられる、ユンドゥン・グツェク山(「九層の卍(永遠)」)と同定される。タジク・オルモルンリンとカイラス山の神聖さ故に、ボン教徒は左卍と数字の9を縁起の良いものとみなし、これらのシンボルを重要視している。

トンパ・シェンラブ・ミボチェがコンポを訪れたとき、土地の人々は供犠によって神霊を鎮めていた。シェンラブは彼らに、大麦の粉、ツァンパで作った動物を生贄の代用とすることを教えた。彼はまた、弟子たちが経典聖典ゾクチェンを修められるように転生できるように、劣った道であるシャーマニズムを通じ、祈祷、精進、帰依、専念について、弟子の能力に合わせて教えを授けた。

ボン教には、「ボンの九乗」と呼ばれる九つの方法体系がある。低位には医学、占星術、占術が置かれ、高位には経典やゾクチェンが置かれている。これら「ボンの九乗」は南伝埋蔵経、北伝埋蔵経、中央埋蔵経の、三種類に分類される。中央埋蔵経はニンマ派の九乗と類似しているが、北伝埋蔵経は失われた。テンジン・ワンギェル・リンポチェ英語版は南伝埋蔵経について、シャーマニズムとともに論じている[20]

中国の伝統宗教

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チベット自治区に居住する漢民族の大多数は、中国の伝統宗教神教)を信仰している。ラサには関帝を祀る関帝廟、「拉萨关帝庙」があり、満・漢・蒙・蔵で共通して見られる英雄、ケサルと習合して祀られている。この関帝廟は、清代1792年に、チベットと中国の折衷的な建築様式で建てられた。長年に渡って修復がされないままおかれていたが、2013年頃に修復された[21][22]


民間信仰

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1981年、アムド県で、ケサル王伝の転生者を自称するソナム・プンツォというチベット人が「リンの英雄たち」という民俗宗教の一派を立ち上げた[23]。この教団は1980年代に最盛期を迎え、地元の共産党幹部の一部までもを改宗させた[24]。その後、中国共産党は「リンの英雄」を、破壊的で「分裂主義」的な宗派として禁止した。

キリスト教

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アントニオ・デ・アンドラデ

チベットに最初に伝わったキリスト教はネストリウス派であった。チベットでは、ネストリウス派の残したさまざまな遺物や碑文が発見されている。彼らはまた、シラ・ムレン河畔、シラ・オルドに置かれたモンケ・カンの幕営(オルド)にも仕え、1256年には同地でカルマ・カギュ派英語版の教主、カルマパカルマ・パクシ英語版と宗論を繰り広げたという[25]。1716年にラサに到達したイエズス会士イッポリト・デシデーリ英語版は、この地でアルメニア人ロシア人の商人に遭遇したと書き残している[26]

17世紀から18世紀には、ヨーロッパからチベットへ、カトリックのイエズス会とカプチン会が訪れた。ポルトガル宣教師でイエズス会士の神父アントニオ・デ・アンドラデと平修道士マヌエル・マルケスは、1624年に西部チベットのグゲ王国に至り、最後の王、タシー・タクパデの歓待を受けたうえ、その後教会の建設を許された[27][28]。1627年には、グゲ王国では100名ほどがキリスト教に改宗していた[29]。布教はその後、ルドク英語版ラダック、ツァンでも行われた。アンドラーデらの布教活動は、ツァントェ王のテンキョンワンボにも好意的に迎えられ、1626年、ツァン地方のシガツェにもイエズス会の布教拠点が建てられた[30]

1661年には、イエズス会士のヨハン・グリューバーが西寧からチベット高原を横断し、ネパールへと赴く前に、ラサに一ヶ月程滞在している[31]。だが、ラサにカトリック教会が開かれたのはその後のことであった。先述のイエズス会士、イッポリト・デシデーリは、1716年から1721年にかけてチベットにラサに滞在し、チベットの文化と言語、仏教について修めている。また、カプチン会の修道士達が、1707年から1711年、1716年から1733年、そして1741年から1745年にかけてラサで布教活動に従事した[32]。17世紀には、チベットの一部の君主とその王室、カルマパ派のラマが、ゲルク派への対抗上キリスト教を利用していた。だが、1745年、ラマの命令によって、すべての宣教師がラサから追放されるに至った[33][34][35][36][37][38]

1877年、チャイナ・インランド・ミッションのプロテスタント宣教師、ジェームズ・キャメロン[39]が、重慶から巴塘へと歩いて越境し、「福音をチベットの人々へと伝え」た。

1905年に勃発したバタン蜂起英語版の間、ジャン=アンドレ・スーリエ英語版を始めとしたフランス人宣教師らがチベット仏教の僧侶達によって襲撃、拷問の上殺害された。また、チベット人改宗者とその家族も虐殺されている[40]

カトリックの殉教者、モーリス・トルネ神父

1949年、聖アウグスチノ修道会の律修司祭、モーリス・トルネ神父は、ダライ・ラマにチベット人クリスチャンへの宗教的寛容を直訴するため変装してラサへと向かっていたが、彼は塩井の教区から追い出された後、チベット仏教僧の待ち伏せに遭い、殺害された。1993年5月16日、トルネ神父はヨハネ・パウロ2世により、殉教者として列福された[41]

過激な国家無神論と苛烈な宗教的迫害にもかかわらず、併合後のチベットにも、キリスト教の信仰を保っているチベット人が存在する。

カトリック教会において、チベットはカトリック康定教区英語版中国語版に属するが、1962年以来司教が置かれていない。一方、チベット自治区には、政府の統括下にある中国天主教愛国会と、聖座への忠誠を誓う地下教会の両方が存在するが、後者に関する統計はその性質上当然ながら入手が困難である[42][43][44]

また、プロテスタントの教団としては、政府の統括下にある三自愛国教会と、これから独立して運営されている家の教会がチベットにもある。ただし、地下教会同様、家の教会に関する統計情報はほとんど明らかではない。

イスラム教

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ラサ大モスク英語版

8世紀から9世紀頃には、ムスリムはチベットに定着していたようである。チベットの町には、カチェー(Kachee、Kacheとも)と呼ばれるチベット系ムスリム英語版のコミュニティが存在し、彼らの先祖はカシミール・ラダック・中央アジアのテュルク系国家といった、三つの地域から移り住んだ人々である。また、ペルシャからもイスラム教の影響は及んでいた。1959年のチベット併合の後、チベット人ムスリムは自身のルーツがカシミールであることに基づいて、インド国籍を請願した。その年の後半には、インド政府がこれらのチベット人ムスリムは全てインド国民であるとする宣言を行った[45]。また、回族サラール族ドンシャン族バオアン族など、チベットに長いこと根付いている人々もいる。回族を祖先に持つ、中国系のムスリムコミュニティ、ギャ・カチェー(gya kachee)も存在する。バルティスタンのバルティ人は、ダルド族英語版と混血したチベット系民族の人々で、大部分がシーア派を信仰している。

信教の自由

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チベットの宗教は中華人民共和国の法律で規制され、「社会の調和を乱すような」宗教・宗教の利用は禁止されている。ゲンドゥン・チューキ・ニマを始めとした仏教指導者は、今も拘禁や監視の対象となっている。

脚注

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注釈

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  1. ^ : International Religious Freedom Report
  2. ^ チベット語: Kongtse Trulgyi Gyalpo
  3. ^ ゲルク派の名目上の最高位はガンデン・ティパであるが、こちらは任期制であり、任命権もダライ・ラマが持つ。
  4. ^ Ni gu ma、密教行者ナーローパの「妻」、あるいは行法上のパートナーであった。
  5. ^ mdo ’dus、要約された経典
  6. ^ dus gsum gshen rab kyi ’byung khungs dang mdzad pa’i rgyud ’dus pa rin po bhe gzer mig gi mdo、光線
  7. ^ ’dus pa rin po bhe’i rgyud dri ma med pa gzi brjid rab tu ’bar ba’i mdo、栄光
  8. ^ terma
  9. ^ gter ma
  10. ^ nyan brgyud
  11. ^ 伏蔵師、掘蔵師とも。ニンマ派やカギュ派、サキャ派、そしてボン教において見られる。埋蔵された適切な時期に秘された教えを発掘をする。
  12. ^ Khyab-pa Lag-Ring

出典

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  1. ^ a b c International Religious Freedom Report 2012 by the US government. p. 20: «Most ethnic Tibetans practice Tibetan Buddhism, although a sizeable minority practices Bon, an indigenous religion, and very small minorities practice Islam, Catholicism, or Protestantism. Some scholars estimate that there are as many as 400,000 Bon followers across the Tibetan Plateau. Scholars also estimate that there are up to 5,000 ethnic Tibetan Muslims and 700 ethnic Tibetan Catholics in the TAR.»
  2. ^ a b Min, Junqing (2012). “The present situation and characteristics of contemporary Islam in China (Feature: Religion in China: focusing on the monotheistic religions)”. Journal of the interdisciplinary study of monotheistic religions : JISMOR (同志社大学) 8: 26-36. CRID 1573668927671180800. doi:10.14988/re.2017.0000016027. ISSN 18801080. https://doi.org/10.14988/re.2017.0000016027. 
  3. ^ Te-Ming TSENG, Shen-Yu LIN. The Image of Confucius in Tibetan Culture Archived 2016-03-04 at the Wayback Machine.. 臺灣東亞文明研究學刊 第4卷第2期(總第8期) 2007年12月 pp.169-207
  4. ^ Shenyu Lin. The Tibetan Image of Confucius Archived 2017-09-13 at the Wayback Machine.. Revue d’Etudes Tibétaines.
  5. ^ China-Tibet Online: Confucius ruled as a "divine king" in Tibet[リンク切れ]. 2014-11-04
  6. ^ Conze, Edward (1993). A Short History of Buddhism. Oneworld. ISBN 1-85168-066-7 
  7. ^ Tibetan monks: A controlled life. BBC News. March 20, 2008.
  8. ^ Tibet During the Cultural Revolution Pictures from a Tibetan People's Liberation Army's officer Archived February 13, 2009, at the Wayback Machine.
  9. ^ Tibetan monks: A controlled life. BBC News. March 20, 2008.
  10. ^ TIBET'S BUDDHIST MONKS ENDURE TO REBUILD A PART OF THE PAST New York Times Published: June 14, 1987.
  11. ^ Goldstein, Melvyn C. (2007). A History of Modern Tibet: Volume 2 The Calm before the Storm, 1951–1955. Berkeley, CA: University of California Press 
  12. ^ 立川 2014, p. 167.
  13. ^ Avalokitesvara, Chenrezig
  14. ^ 立川 2014, p. 170.
  15. ^ 立川 2014, p. 169.
  16. ^ 立川 2014, p. 171.
  17. ^ United States Bureau of Democracy, Human Rights and Labor. China: International Religious Freedom Report 2007.
  18. ^ a b 津曲 2009, p. 669.
  19. ^ 津曲 2009, p. 665.
  20. ^ Wangyal 2002, pp. 205–207.
  21. ^ World Guangong Culture: Lhasa, Tibet: Guandi temple was inaugurated.
  22. ^ China-Tibet Online: Tibet's largest Guandi Temple gets repaired[リンク切れ]. 2013-03-13
  23. ^ The Heroes of Ling: The Elimination of a Tibetan Sect. Bod sjongs 'phrin deb 1982. Translation first published on: Background Papers on Tibet - September 1992, part 2, London: Tibet Information Network, 1992, pp. 30-33.
  24. ^ The Heroes of Ling: The Elimination of a Tibetan Sect. Bod sjongs 'phrin deb 1982. Translation first published on: Background Papers on Tibet - September 1992, part 2, London: Tibet Information Network, 1992, pp. 30-33.
  25. ^ Kapstein 2006, pp. 31, 71, 113
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  27. ^ Graham Sanderg, The Exploration of Tibet: History and Particulars (Delhi: Cosmo Publications, 1973), pp. 23–26; Thomas Holdich, Tibet, The Mysterious (London: Alston Rivers, 1906), p. 70.
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  30. ^ Extensively using Italian and Portuguese archival materials, Wu's work gives a detailed account of Cacella's activities in Tsang. See Zaoqi Chuanjiaoshi jin Zang Huodongshi, esp. chapter 5.
  31. ^ Narratives of the Mission of George Bogle to Tibet, and of the Journey of Thomas Manning to Lhasa, pp. 295–302. Clements R. Markham. (1876). Reprint Cosmo Publications, New Delhi. 1989.
  32. ^ Stein 1972, p. 85
  33. ^ When Christianity and Lamaism Met: The Changing Fortunes of Early Western Missionaries in Tibet”. Pacificrim.usfca.edu. June 26, 2010時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年3月26日閲覧。
  34. ^ “BBC News Country Profiles Timeline: Tibet”. (2009年11月5日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/country_profiles/6299565.stm 2009年3月11日閲覧。 
  35. ^ Lettera del P. Antonio de Andrade. Giovanni de Oliveira. Alano Dos Anjos al Provinciale di Goa, 29 Agosto, 1627, quoted from Wu, Zaoqi Chuanjiaoshi jin Zang Huodongshi, p. 196; Maclagan, The Jesuits and The Great Mogul, pp. 347–348.
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  37. ^ Maclagan, The Jesuits and The Great Mogul, pp. 349–352; Filippo De Filippi ed., An Account of Tibet, pp. 13–17.
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  43. ^ Easter in China: rebirth in a Tibetan Catholic village by Chris Helali, South China Morning Post, 5 Apr. 2015.
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  45. ^ Masood Butt, 'Muslims of Tibet' Archived 2006-09-10 at the Wayback Machine., The Office of Tibet, January/February 1994

参考文献

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英語文献

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日本語文献

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関連項目

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