コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

愛知敬一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
愛知 敬一
生誕 1880年明治13年)7月25日
東京府 (当時)
死没 (1923-06-23) 1923年6月23日(42歳没)
国籍 日本の旗 日本
研究分野 物理学
研究機関 東京帝国大学
京都帝国大学
東北帝国大学
出身校 東京帝国大学
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

愛知 敬一(あいち けいいち、1880年明治13年〉7月25日 - 1923年大正12年〉6月23日)は、日本物理学者東北帝国大学理科大学物理学科教授を務めた。

生涯

[編集]

1880年(明治13年)東京府生まれ。

東京帝国大学卒業。東京帝大講師、京都帝大助教授。ヨーロッパへの留学を経て、1911年明治44年)に東北帝国大学理科大学(理学部)の教授に就任した。1912年には、総長推薦によって同大学から博士号物理学)を授与された。

1922年大正11年)のアルベルト・アインシュタイン訪日時には、神戸港に出迎え、仙台市公会堂で行われた講演会でも通訳を務めた。

1923年大正12年)、食中毒フグによる[1])により急死、42歳没。

栄典

[編集]
位階
勲章等

家族

[編集]

父・信元は、幕末には小姓として徳川慶喜に仕え、明治維新以降には学習院や華族女学校(現学習院女子高等科)で数学を教えていた人物であった。息子の愛知揆一政治家となり、外務大臣大蔵大臣などを歴任した。同じく政治家の愛知和男は揆一の娘婿、愛知治郎は曾孫である。

著書

[編集]
1922年、東北帝大にて。左から、本多光太郎、アインシュタイン、愛知、日下部四郎太

共著

[編集]

共訳

[編集]

脚注・出典

[編集]
  1. ^ 中島信吾『巨星墜つ:百年の逸材:仙台二高』 息子・愛知揆一の死去前後の様子や生涯を綴った文章である。
  2. ^ a b 『官報』第3271号「叙任及辞令」1923年6月26日。
  3. ^ 『官報』第3272号「叙任及辞令」1923年6月27日。

外部リンク

[編集]